頼朝の申請
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:57 UTC 版)
義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京する。康定が伝えた頼朝の申状は、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」(『玉葉』10月2日条)と朝廷を大いに喜ばせるものであった。その一方で頼朝は、志田義広が上洛したこと、義仲が平氏追討をせず国政を混乱させていることを理由に、義仲に勧賞を与えたことを「太だ謂はれなし」と抗議した(『玉葉』10月9日条)。 10月9日、後白河は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える(『百錬抄』)。ただし、後白河は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた(『玉葉』10月23日条)。高階泰経が「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。義仲は当時京にあり」(『玉葉』閏10月13日条)と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定することは不可能だった。頼朝はこの和平案を後白河の日和見的態度と見て、中原康定に「天下は君の乱さしめ給ふ(天下の混乱は法皇の責任だ)」と脅しをかけ(『玉葉』10月24日条)、義仲の完全な排除を求めて譲らなかった。
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