頼朝代官としての義経
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:05 UTC 版)
まず、頼朝が義経を上洛を命じた段階では、あくまでも後白河法皇に供物を届けることを目的としており、『玉葉』寿永2年11月7日条にも、頼朝代官(義経)が近江到着の時点で兵力は5・600騎しかなく合戦の備えをしていなかったことが記されている。また、同じく10日条には義仲が義経入洛を認める様子を見せている。頼朝が義経を派遣した当初の目的は寿永2年10月宣旨を受けて東海道・東山道地域の治安回復にあたるとともに朝廷との関係を改善することが目的であり、義仲との軍事的対決を意図したものではなかった。それが、法住寺合戦によって頼朝は義仲との対決を決意して範頼率いる義仲討伐軍を別途派遣し、先行していた義経に合流を命じたとする。
※この「頼朝代官としての義経」の解説は、「源義経」の解説の一部です。
「頼朝代官としての義経」を含む「源義経」の記事については、「源義経」の概要を参照ください。
- 頼朝代官としての義経のページへのリンク