頼朝挙兵
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治承4年(1180年)、伊豆国で挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると頼朝は直ちに常胤に加勢を求める使者として安達盛長を送った。『吾妻鏡』によれば、常胤は胤正・胤頼以下の子息とこれを丁重に迎え入れて、盛長の言伝を聞いたものの何の反応も示さない。そこで胤正・胤頼が早急の返事を進めたところ、「自分の心中は勿論その積りだ。ただ、頼朝殿が源氏中絶の後を興されたことを考えると、感涙が眼を遮り、言葉も出ないのだ」と言って、盛長に相模国鎌倉を根拠にすることを勧めたとされる(治承4年9月9日条)。 一方、『源平盛衰記』では、常胤が「一旦上総介(上総広常)と相談したい」と述べたため、盛長が館を出たところ、偶々鷹狩から戻る途中の胤正に出会い、胤正は盛長を館に連れ戻した後に常胤に「上総介(広常)の家臣ではないのだから、相談する必要は無い」と述べ、常胤も参陣の意を述べたとされている。一方、『吾妻鏡』の9月6日条では使者である和田義盛と会った上総広常も「千葉介(常胤)と相談したい」と述べており、『吾妻鏡』と『源平盛衰記』の記事の違いは2回の訪問の際の出来事が混同されていると考えられている。 9月13日、常胤は胤頼の勧めに従って、胤頼と嫡孫・成胤(胤正の子)に命じて平家に近いとされた下総の目代を下総国府(現在の市川市)に襲撃してこれを討っている。ところが、匝瑳郡に根拠を置き平氏政権によって下総守に任じられていた判官代・藤原親政(親通の孫)が、頼朝討伐に向かう途中でこの知らせを聞いて急遽千葉荘を攻撃した。9月14日に急遽引き返した成胤と親政は戦いに及んで親政を捕縛することに成功している(結城浜の戦い)。 『吾妻鏡』では9月17日に常胤は一族300騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣したとしている。ただし、頼朝が途中、常胤の本拠である千葉荘を通過して千葉妙見宮などを参詣したと伝えられていることから、現在では最初の会見は上総国府(現在の市原市)もしくは結城ノ浦(現在の千葉市中央区寒川神社付近)で行われたと考えられている。なお、この時に源氏の子として育ててきた頼隆を伴って参陣したとされ、頼朝から源氏軍への参陣への労いの言葉を受けるとともに、頼隆を頼朝に対面させて源氏の孤児を育ててきたことを深く謝され、「司馬を以て父となす」と述べたといわれている。もっとも、前述の経緯のように常胤の参陣の背景には国府や親平氏派(下総藤原氏・佐竹氏)との対立関係や、かつての相馬御厨を巡る千葉常胤と源義朝との間のいきさつを考慮しなければならず、頼朝の決起に感涙したという『吾妻鏡』のような美談をそのまま事実とすることは出来ないのである。10月2日には頼朝が太日河・墨田川を越えて武蔵国に入り、豊島清元・葛西清重父子に迎えられているが、この際に船を用意したのは千葉常胤と上総広常とされている。また、葛西清元は治承元年(1177年)の香取神宮造営の際の雑掌を務めており、この時在庁官人であった千葉常胤とも造営を通じて関係を持ち、畠山氏などの平家方勢力が残る中での源頼朝の武蔵入国に際しては両岸の千葉・豊島両氏が連携を行ったとみられている。また、常胤当時の千葉の推定図と頼朝時代の鎌倉の推定図がともに北端に信仰の中核になる寺社(千葉の尊光院と鎌倉の鶴岡八幡宮)を設けてそこから伸びる南北の大路を軸として町が形成されていることから、鎌倉の都市計画に常胤の献策があった可能性を指摘する研究者もいる。常胤が上総広常に比べてなぜ頼朝に信頼をされているのかというと、常胤の居住する場所が比較的開発が早く進み、国衙や御厨を通して、中央の文化を早く受け入れていたために動静を把握することの速さが要因と考えられるのである。 源氏軍の与力として活躍。富士川の戦い後、上洛を焦る頼朝を宥めたと言われている。佐竹氏討伐を進言して相馬御厨の支配を奪還する。寿永2年(1183年)に頼朝に疎まれた上総広常が誅殺され、房総平氏の惣領の地位は千葉常胤に移ることになる。もっとも、広常の誅殺は頼朝の身内的存在であった北条氏・比企氏の台頭と並行して行われ、誅殺の結果として頼朝を支える基盤が常胤を含む房総平氏から北条氏・比企氏に移り、頼朝の「義父」としての立場を失った常胤は鎌倉政権中枢から御家人の一人に転落することになったとする見方もある。元暦元年(1184年)には、源範頼軍に属して一ノ谷の戦いに参加、その後は豊後国(大分県)に渡り軍功を上げた。文治3年(1187年)洛中警護のため上洛。文治5年(1190年)の奥州藤原氏討伐のための奥州合戦に従軍して東海道方面の大将に任じられて活躍し、奥州各地に所領を得た。建久4年(1193年)には香取社造営雑掌を務め、後に千葉氏が香取社地頭として、社内への検断権を行使する権利を獲得するきっかけとなる。 建仁元年(1201年)3月24日に死去、享年84。死去の地がどこか、記録には残されていない。『千葉大系図』もこれには触れず、「下総国千葉山に葬る、法号浄春貞見」と記載している。千葉市轟町の大日寺には、十数基の五輪塔が立っており、この中に常胤のものもあると伝えられている。
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頼朝挙兵
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治承4年(1180年)8月9日に源義朝の遺児の頼朝が伊豆国で挙兵を決めると嫡男の与一義忠とともに直ちに参じた。挙兵を前に義実は源氏の御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝の部屋に呼ばれて合戦について相談され「未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、感激して勇敢に戦うことを誓った。実は、このように密談をしたのは義実だけではなく、工藤茂光・土肥実平・宇佐美助茂・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉も同じことを頼朝から言われている。ただ、義実・義忠父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平と伴に北条館へ参じるよう伝えている。 8月17日に頼朝は挙兵して伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃してこれを殺害した。頼朝は300余騎の軍勢を率いて相模国の土肥郷(神奈川県湯河原町)へ進出。23日に石橋山(神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親率いる3,000余騎と相対した。石橋山の戦いは寡兵の頼朝方が大敗を喫し、義実の嫡男の義忠が討ち死にしている。『平家物語』や『源平盛衰記』には先陣となった義忠の奮戦ぶりが詳しく描かれており、武勇の若武者佐奈田与一義忠の名は後世に長く残ることになる。 敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の進言で一旦兵を解散させることになった。一同は安房国で再会することを約し、泣く泣く別れた。義実は北条時政や三浦義澄らと先発して安房へ舟を出し、後から到着した頼朝を迎えた。 その後、頼朝は千葉常胤や上総広常らの軍勢を加えて再挙し、関東の武士が続々と参陣して10月6日に鎌倉に入った。
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