頼朝側近として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 02:48 UTC 版)
元暦2年(1185年)6月には頼朝が多田行綱から没収した摂津国多田荘および荘内の在地武士(多田院御家人)の支配を命じられたほか、同年(文治元年)8月の除目で頼朝の推挙によって受領に任命された源氏一門6人のうちの1人として相模守に補任される。また同年9月に鎌倉の勝長寿院で執り行われた頼朝の父・源義朝の遺骨葬送では父義信と惟義、源頼隆の3名のみが遺骨への近侍を許されている。これは平治の乱で、父義信が義朝とともに戦い、その折に頼隆父の源義隆が戦死したという所縁による。父義信は幕府行事の供奉交名において基本的に首位を占め、門葉筆頭として頼朝の信頼を得ていた。 文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍した。翌建久元年(1190年)の頼朝上洛および同6年(1195年)の再上洛にも随行した。
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