再上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:22 UTC 版)
文明12年(1480年)に相伴衆となる。長享元年(1487年)、9代将軍・足利義尚が行った近江国の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)には家臣・問田弘胤を代理として参陣させた。延徳2年(1490年)、政弘は朝廷が東大寺領として与えていた周防国の国衙領の目代に息子の尊光を任じて、以後国衙領の租税は大内氏が徴収して東大寺に納めることとしたが、実際に徴収された租税が東大寺へ送られる事はなく、大内氏の領国の中で東大寺が独自の地位を築いてきた周防国の国衙領を押領することに成功した。 延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙に従い再度の六角高頼討伐に従軍するため再び上洛。翌明応元年(1492年)には嫡子・義興も参陣させている。しかし、明応3年(1494年)、中風が悪化したため義興に家督を譲って隠居。明応4年(1495年)に死去した。享年50。
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