南北朝時代の九州制圧戦
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「九州平定 (日本史)」の記事における「南北朝時代の九州制圧戦」の解説
足利尊氏 詳細は「多々良浜の戦い」を参照 建武3年(1336年)2月、摂津国豊島河原合戦で新田義貞・北畠顕家の軍に大敗を喫した足利尊氏は摂津兵庫から播磨国室津へと退き、そこで赤松則村の進言を容れて京都を放棄し、九州へ下った。途中、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国に入ると宗像大社の宮司宗像氏範らの支援を受けた。3月初旬の多々良浜の戦いでは、当初宮方が優勢であったものの宮方の菊池武敏軍から大量の裏切りが発生して戦況は逆転し、阿蘇惟直はこのなかで戦死した。九州のほぼ全域を平定した尊氏は体勢を整え、一色範氏や仁木義長らを九州の抑えとして残留させ、西海道の武士たちを率いて再上洛し、摂津国湊川の戦いで宮方の楠木正成を破った。仁木義長の九州転出後、幕府は一色範氏を初代九州探題に任じた。 懐良親王 詳細は「筑後川の戦い」を参照 1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年)、征西大将軍として九州に赴いた後醍醐天皇の皇子懐良親王と親王を奉じた菊池武光は、筑後高良山(福岡県久留米市)と毘沙門岳に城を築いて「征西府」とした。同年7月、懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢が筑後川北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝勢の少弐頼尚・直資の父子、大友氏時、城井冬綱らの大軍と対峙し、激しい戦闘となった。この戦いは親王方の勝利に終わり、大宰府は懐良親王の支配するところとなった。以後、九州地方のほぼ全域は、12年にわたって南朝勢力によって平定されることとなり、懐良親王は「日本国王良懐」として明とのあいだに冊封関係を結んだ。
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