南北朝時代の九州制圧戦とは? わかりやすく解説

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南北朝時代の九州制圧戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:16 UTC 版)

九州平定 (日本史)」の記事における「南北朝時代の九州制圧戦」の解説

足利尊氏 詳細は「多々良浜の戦い」を参照 建武3年1336年2月摂津国豊島河原合戦新田義貞北畠顕家の軍に大敗喫した足利尊氏摂津兵庫から播磨国室津へと退き、そこで赤松則村進言を容れて京都放棄し九州下った途中長門国赤間関山口県下関市)で少弐頼尚迎えられ筑前国に入ると宗像大社宮司宗像氏範らの支援受けた3月初旬多々良浜の戦いでは、当初宮方優勢であったものの宮方菊池武敏軍から大量の裏切りが発生して戦況逆転し阿蘇惟直このなかで戦死した九州のほぼ全域平定し尊氏体勢整え一色範氏仁木義長らを九州抑えとして残留させ、西海道武士たちを率いて再上洛し、摂津国湊川の戦い宮方楠木正成破った仁木義長九州転出後、幕府一色範氏初代九州探題任じた懐良親王 詳細は「筑後川の戦い」を参照 1359年南朝正平14年北朝延文4年)、征西大将軍として九州赴いた後醍醐天皇皇子懐良親王親王奉じ菊池武光は、筑後高良山福岡県久留米市)と毘沙門岳に城を築いて征西府」とした。同年7月懐良親王菊池武光赤星武貫宇都宮貞久草野永幸南朝勢が筑後川北岸に陣を張り大宰府本拠とする北朝勢の少弐頼尚・直資の父子大友氏時城井冬綱らの大軍対峙し、激し戦闘となった。この戦い親王方の勝利終わり大宰府懐良親王支配するところとなった以後九州地方のほぼ全域は、12年わたって南朝勢力によって平定されることとなり、懐良親王は「日本国王良懐」として明とのあいだに冊封関係を結んだ

※この「南北朝時代の九州制圧戦」の解説は、「九州平定 (日本史)」の解説の一部です。
「南北朝時代の九州制圧戦」を含む「九州平定 (日本史)」の記事については、「九州平定 (日本史)」の概要を参照ください。

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