南北朝時代 - 安土桃山時代
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「岡山城」の記事における「南北朝時代 - 安土桃山時代」の解説
南北朝時代の正平年間(1346年 - 1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。その後およそ 150年間の城主は明らかではない。なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていたとされる。戦国時代の大永年間(1521年 - 1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていた。 元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺しこの地を支配した。直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張していた。天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されている。直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。そして備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長が安土城を築城する3年前のことである。これは直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられている。 なお主家である宗景の居城である天神山は巨大なものではあるが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的である。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた。 直家の子・宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となる。これに相応した城とするため天正18年 - 慶長2年(1590年 - 1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えた。秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備した。これらは織豊系城郭に特徴的な高石垣の積まれた城である。本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てた。そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としている。ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながる。そして城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めた。築城には義父となった秀吉の意向が大いに働いていると言われている。 こののち城は「岡山城」、城下町は「岡山」の呼称が定着した。
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