南北朝時代 - 安土桃山時代とは? わかりやすく解説

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南北朝時代 - 安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:42 UTC 版)

岡山城」の記事における「南北朝時代 - 安土桃山時代」の解説

南北朝時代正平年間1346年 - 1369年)に、名和氏一族上神高直石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初伝えられている。その後およそ 150年間の城主は明らかではない。なおこの付近に摂関家領・鹿田荘中心部があったとされ、旭川鹿田川河口港町としても栄えていたとされる戦国時代大永年間1521年 - 1528年)には、金光氏居城とし金川城主の松田氏仕えていた。 元亀元年1570年)、宇喜多直家金光宗高謀殺しこの地を支配した。直家は備前守護代浦上氏一族浦上宗景被官であったが、備前西部中心に勢力急速に伸張していた。天正元年1573年)、直家はそれまで居城である亀山城沼城)から石山城に入城し、城の改築城下町形成行ったこの頃石山城(岡山城)は、縄張東西に走る連郭式であった推定されている。直家は北方山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下導いた。そして備前福岡備前西大寺などから商人呼び寄せいわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長安土城築城する3年前のことである。これは直家が幼少の頃に、備前福岡商人庇護受けたと言われていることも無縁ではないとみられている。 なお主家である宗景の居城である天神山巨大なものではあるが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的である。天正3年1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨放逐し事実上下克上行いやがて備前美作、さらに播磨備中一部支配下置いた。 直家の子宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し574,000石の大大名となる。これに相応した城とするため天正18年 - 慶長2年1590年 - 1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁整えた。秀家は「岡山」に本丸構え石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備した。これらは織豊系城郭特徴的な高石垣積まれた城である。本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦使用した壮麗な4重6階望楼天守建てた。そしてそのままでは本丸東側守り極めて薄い構造となったため、旭川本流城郭北から東側沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としている。ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下洪水多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川整備へとつながる。そして城を南から取り巻くように西国往来道筋変えて、直家時代城下町拡大整備し引き続き領内の有力商人勧誘して経済活動発展させるよう努めた築城には義父となった秀吉意向大い働いていると言われている。 こののち城は「岡山城」、城下町は「岡山」の呼称定着した

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