鎌倉時代 - 安土桃山時代
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「松山城 (備中国)」の記事における「鎌倉時代 - 安土桃山時代」の解説
仁治元年(1240年)、秋庭三郎重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。 城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。 元亀元年(1570年)には元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つために出撃した際に、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀2年(1571年)2月に穂井田元清の協力の下で庄高資を討ち、松山城を奪還した。天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。
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鎌倉時代 - 安土桃山時代
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「日本の儒教」の記事における「鎌倉時代 - 安土桃山時代」の解説
南宋の朱熹によってはじめられた朱子学は、日本では宋学と称され、日本へは1199年(正治元年)に入宋した俊芿が儒教の典籍250巻を持ち帰ったのが始まりとされる。以来、渡宋した円爾弁円や中巌円月らの禅僧や元の侵攻を避け、南宋から渡ってきた知識人によって広められ、1299年(正安元年)、元より来日した一山一寧がもたらした注釈によって学理が完成されたといわれる。14世紀に入ってあらわれた天台宗の僧玄恵は朱子学に通じ、後醍醐天皇の側近として仕えたともいわれる。 南北朝時代から室町時代にかけては、京都五山や鎌倉五山など主として臨済宗の禅宗寺院において儒学が研究された。また、15世紀前半、上杉憲実によって再興された下野国の足利学校でも儒学の講義がおこなわれた。 15世紀後半の応仁・文明の乱により京都が荒廃したため、公家や僧侶などの文化人は地方へ下り、各地の大名や有力武士をたよるようになったため、儒学者も地方に拡散した。桂庵玄樹は周防の大内氏や肥後の菊池氏、薩摩の島津氏などに儒学を講じ、薩南学派の基礎をきずいた。土佐の南村梅軒は朱子学を講じ、南学(海南学派)を開いた。南学は、近世以降、京都を中心とする京学と並び、儒学の一学派をかたちづくった。
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