鎌倉時代から安土桃山時代
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「亀山城 (伊勢国)」の記事における「鎌倉時代から安土桃山時代」の解説
伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城された。神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなした。その後、関氏の時代のうちに現在の位置に移され、永禄10年(1567年)の織田信長の伊勢進攻以降は、たびたび戦場となった。天正11年(1583年)には蒲生氏郷が城主となっている。天正18年(1590年)に、豊臣秀吉に従った岡本良勝が入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。
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鎌倉時代から安土桃山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/17 13:29 UTC 版)
寛元3年(1245年)一月十七日、小早川季平(新庄小早川氏)は景平より安芸国沼田新庄内、草井黒谷、吉名浦、及び相模北成田藤大作屋敷田10丁のうち1丁を譲り受け、現在の広島県三原市大和町上草井に城を築いた。これが草井氏の始まりである。その後は、竹原小早川氏の庶子家として江戸時代まで活躍した。応仁の乱において応仁2年(1468年)に草井飛弾守、三河守、和泉守は小早川備後守に従い出陣。文明12年(1480年)、草井蔵人は室町幕府第11代将軍足利義澄から上納金を受ける。草井和泉守と草井小二郎は文明15年(1483年)備前福岡合戦に出陣した。そして天文14年(1545年)、小早川隆景が竹原小早川家の当主になってからはこれに仕え、弘治元年(1555年)草井藤七は厳島の戦いにおいて隆景を庇い、討死した。この事件後、草井氏一族は隆景の恩を受け、重臣として重宝される。永禄11年(1568年)には草井式部少輔は隆景に従い多々良浜の戦いで筑前に出陣している。
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