鎌倉時代から安土桃山時代の対外関係
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「日本の女性史」の記事における「鎌倉時代から安土桃山時代の対外関係」の解説
海外からみた日本の女性 宣教師ルイス・フロイスは『日欧文化比較』において16世紀の日本の女性について「純潔を重んじない。それを欠いても名誉を失わなければ結婚できる」「夫に断らずに好きなところに自由に行く」「しばしば妻が夫を離縁する」「夫婦であっても財産は別で、時に妻は夫に高利貸しを行う」などと記しており、欧米に比べると女性が自立していた様子がうかがえる。一方で、堕胎の多さや戦場で拉致される女性や子供たちについても記している。また朝鮮王朝の使節・宋希璟は『老松堂日本行録』に「遊女が多く通行人を強引に店に引き入れる」「寺では僧尼が同宿しており、尼が妊娠しても出産後にまた寺に戻る」など「奇なること多し」と記している。 奴隷売買と海外居住者 戦国時代以降は、雑兵と呼ばれた兵士が人や物を略奪する乱妨取りを行い、乱妨取りで捕らえた捕虜を人買の商人に売り渡すようになった。ポルトガルの商人が来航すると、ポルトガル商人にも捕虜を売る者が現れた。豊臣秀吉はバテレン追放令で海外への人身売買停止令を出したが、他方では九州平定の豊薩合戦(1586年-1587年)で捕虜になった豊後や肥後の女性や子供が売買されるのを容認した。また、朝鮮半島での文禄・慶長の役(1592年-1593年、1597年-1598年)では人捕りを禁じつつも、捕らえた朝鮮人から技術者や女性を献上するように大名に命じた。 奴隷貿易で取り引きされた日本人は、世界各地へ運ばれた。特に中継貿易で栄えたマカオには、ポルトガル人の伴侶として日本人女性が多く暮らしたと推測される。各地に残る訴訟記録から、売買された日本人側は奴隷ではなく年季奉公として解釈していた者もいたとされる。取り引きされた日本人は洗礼名をつけられ、女性の洗礼名も各地の記録に残っているが、日本名はほとんど分かっていない。こうした女性たちの中には、資金を貯めて独立したり、主人の死後に解放されたりして自由民となった者もいた。
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