戦国時代以降
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戦国時代の動向は不明であるが、出雲国の尼子氏に従った後、天文10年(1541年)に下野守家が絶家して、その後の惣領問題が発生したことが確認でき、天文17年(1548年)頃に大内氏に攻められて没落したとみられている。なお、庶流である有地氏・久代氏などは後に毛利氏に従って長州藩に仕えた。
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戦国時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:45 UTC 版)
木田見流江戸氏が、世田谷城主・吉良氏の家臣として見える。吉良氏朝の配下・江戸摂津守浄仙と景福軒呂顕(浄仙の父)で、木田見系図では「常光」とその父「門重」とする。この家系はのち古河公方、次いで後北条氏に仕えた。子孫の江戸勝忠(後の喜多見勝忠)は豊臣秀吉による小田原征伐に際して、後北条氏と共に小田原城に籠城したが、小田原城が開城し北条氏が没落すると。替わって江戸に入府した徳川家康の家臣となり、世田谷喜多見に所領を安堵され姓を江戸氏から喜多見氏に改めた。喜多見勝忠はその後、九戸政実の乱で現在の岩手県まで出征し、関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍した功績もあり、才を買われて元和元年(1615年)に近江国郡代となった。翌年には堺奉行となり、後陽成天皇の葬礼を務めるなどの功績を挙げた。子に旗本で茶人の喜多見重勝がいる。勝忠から数えて3代目の喜多見重政は徳川綱吉の寵臣として旗本から累進し、天和3年(1683年)に譜代大名となった。江戸郊外喜多見の地に1万石(のち2万石)の喜多見藩を立藩、初代藩主となり、築城すら許されその費用を綱吉から与えられた。貞享2年(1685年)には側用人となるなど綱吉の寵愛は深かったが、城の完成を見ることはなく元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた(改易の原因は不明。重政の一族で旗本分家・喜多見重治の不祥事への対応を誤ったため、など諸説ある。)。なお重政の嫡男・忠政は後に松前藩に仕えて続いた。 一族の蒲田氏は後北条氏に仕えて活動した。蒲田氏は、「江戸名字書立」に他家とは別に「蒲田殿一跡」と記され、江戸氏代々の相伝の土地を所領としていることなどから他の庶家とは別格扱いで、江戸氏一門の中でかなり有カな家柄であった。江戸時代には土井利勝に仕えたが土井氏の一時無嗣断絶に伴う古河藩領削減の際、浪人し、以降子孫は相馬中村藩士小島氏に養子入りして続いた。 牛込にあった牛込江戸氏は、江戸憲重が上杉禅秀の乱で戦功を立て、鎌倉の奉公衆となっている。憲重は子と思われる重方へ所領を譲り、享徳の乱頃および長享・明応年間に江戸越後守が活動しているが、それ以後は資料に見えず、上野国の大胡重行(牛込氏)が牛込に入る前に没落した。 小野姓江戸氏は上野の長尾顕長の家臣となり、徳川家康の関東入国の際に徳川氏に仕え、江戸姓から小野姓となって旗本となった。
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戦国時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 05:25 UTC 版)
しかし、戦国時代(室町時代後期)になると、武田信玄・上杉謙信・山名宗全・大友宗麟など、出家しながら俗事に携わる人物が法皇以外で現れ、彼らは結果として苗字+戒名を名乗った。 なお、僧が武将化した場合は、安国寺恵瓊のように寺号+戒名か、または院号+戒名の呼び方で名乗るのが普通であった。これらの呼び方は、江戸時代に入ると、急速に廃れていった。
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戦国時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 01:31 UTC 版)
戦国時代になると、今川氏が勢力を拡大し、葛山氏はその領国支配に組み込まれる。しかしこの時期、葛山氏は葛山氏元(1520年 - 1573年?)の時代に最盛期をむかえた。葛山氏によって発給された証文が天文11年(1542年)から永禄12年(1569年)の間にだけでも44点伝わることも、それを裏付けている。これらの史料により、当時の葛山氏の支配地域は御殿場から三島方面にまで及んだことが裏付けられている。富士山の西側、富士宮市方面まで支配が及んでいたともいう。 戦国時代後期には駿河の今川氏・相模の後北条氏・甲斐の甲斐武田氏の抗争の舞台となっていった。今川氏が滅亡した戦国時代後期には葛山氏は武田氏に属した。領主による一帯の開発が進行、遠江国で今川氏に滅ぼされた勝間田氏の残党が移り住み、新田開発を行っている。 江戸時代には幕府領(天領)、沼津藩領、小田原藩領などが入り乱れた。天明の大飢饉(1782年 - 1788年)の際は、天明3年(1783年)にこの地方の農民による一揆が起きている(御厨一揆)。
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戦国時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 05:50 UTC 版)
後北条氏の家臣となった蒲田致重は下総守、入道後は重蓮と号して慶長13年3月3日に没した。致重の孫、蒲田重武(重康)は北条氏直に仕え、足利義氏の命により左京亮に任じられたほか、神奈川の戦で功績を挙げ、北条氏直から感状並びに加恩を賜わったとされる。重武の正室は梶原景信の娘。また、後北条氏で御家門と同様に尊称されていた「六郷殿」は江戸蒲田氏の当主であるという説もある。 天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅びると、重武は浪人を経て土井利勝に仕え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に子の蒲田重吉とともに従軍して禄100石を賜る。子の重吉も50石を賜り納戸奉行を任じられたほか、翌年の大坂夏の陣において江戸邸を守り、帰陣の後戦功の者と等しく恩賞を賜ったとされる。しかし藩主土井氏の一時断絶による藩士削減で浪人し、陸奥相馬中村藩の藩士小島氏に養子入りして近世以降も家系を保った。相馬中村藩の衆臣家譜には「江戸四郎重継後裔江戸新五郎致重武州六郷蒲田に住す、故に氏を蒲田と称す」とあり、「致重(下総守)━定重(下総介)━重武(左京亮)━重吉」と続いたとされる。 菩提寺は大田区蒲田にある日蓮宗・妙典寺で、北蒲田村にあった「大屋舗」が江戸蒲田氏の居館跡とする説がある(大田区史)。
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戦国時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/18 02:23 UTC 版)
天正年間の小早川家の座配書立の上位に裳懸殿の名が見え、他にも裳懸河内守(裳懸河内守盛聡)、裳懸六郎(裳懸六郎盛聡)、裳懸采女允などの名が記されていることから、小早川隆景の時代の小早川家臣団の中でも重きをなしたものと考えられる。 小早川隆景が没すると裳懸六郎盛聡は京都に閑居し、裳懸氏を改め高山氏を称した。関ヶ原の戦いでは東軍に参陣。徳川家康本隊で鉄砲頭として鉄砲隊の一隊を指揮し、その功をもって備中国後月郡木子村で1000石を与えられた。嫡男・高山盛勝の時代に所領の一部を上野国新田郡に移されるが、寄合旗本1000石として明治維新までつづいた。分家に次男・高山利永を祖とする旗本450石がある。 永禄4年(1561年)、毛利元就・隆元父子が隆景の居城新高山城を訪問した際、父・裳懸河内守盛聡と共に召しだされ、杯を受けた裳懸景利の系統は町人となった。
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戦国時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 02:15 UTC 版)
高梨政盛の代に、越後守護代の長尾氏と関係を強めるため、長尾能景に娘を嫁がせるが、その娘が産んだ長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護代となり、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。また明応4年(1495年)には善光寺を巡って村上政清と争いとなり善光寺を焼失させた。政盛と高梨澄頼はこの時に同寺の本尊を本拠地に持ち帰ったとされ河東善光寺縁起(南照寺)にあるものの悪病の流行で3年もたたないうちに返還したとされる[要出典]。 永正4年(1507年)、越後の永正の乱において為景が越後守護上杉房能を殺害した際には為景を支援している。また房能の兄で関東管領上杉顕定が為景をいったんは放逐するが、永正7年(1510年)の長森原の戦いに為景方の援軍として出陣して顕定を敗死させている。政盛は永正10年(1513年)頃までに善光寺平北部の中野郷を奪取して本拠地と定め、高梨氏の全盛期を築いたとされている。しかしその年のうちに政盛が死去、越後では為景と新守護上杉定実の争いが起き、近隣の井上一族を始め信濃島津氏や栗田氏、海野氏ら北信濃の国人衆が上杉方に付き、唯一の長尾方として孤立していくこととなる。さらに善光寺平を手中に収めようとする村上氏との対立もあり、高梨氏に討たれて没落していた中野氏の牢人・被官に混じって高梨一族が高梨宗家に対して反乱を起こして村上氏支配地の小島田(長野市)に集結した。以後、高梨氏は弱体化していった。 それでも政盛の孫の高梨政頼の頃まで独立性を保ってきたが、村上氏を撃破した甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、弘治年間(1555年 - 1558年)に本拠地中野郷から信越国境に近い飯山郷まで後退した。その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けて一時的に所領を取り返したが、その後武田と長尾(上杉)の対立(川中島の戦い)の中で他の北信濃国人衆と共に上杉家の家臣化が進んでいった。 天正10年(1582年)3月に、織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡し、織田氏の家臣森長可が信濃川中島四郡を領する。同年6月の本能寺の変により長可は信濃から撤退、越後の国の上杉景勝が進出する(天正壬午の乱)。これに伴い高梨氏は旧領に復帰することができた。 豊臣政権による文禄・慶長の役では上杉軍として高梨頼親が熊川に在陣し城を修築している。その後上杉家は、会津・米沢藩と転封を重ねるが、頼親もこれに従っている。彼の子孫は米沢藩士として江戸時代に代々続いた。 この系統の他に、尾張や丹後または相模国などに移住した高梨氏もあったと言う。2022年(令和4年)現在の高梨家の末裔として認知されている一族は尾張高梨家出身である。
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