高梨一族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:01 UTC 版)
1105年に先祖が野田に来たと伝わる。 高梨兵左衛門本家 1661年に高梨兵左衛門19代が醤油醸造を始める。「ジョウジュウ印」を商標に広く知られるようにになり、幕末には最上醤油の呼称を幕府から許される。高梨周造が1849年に分家して醤油醸造を始める。 高梨孝右衛門が1864年に分家して醤油醸造を始める。 髙梨兵左衛門 上花輪村名主で醤油醸造家(キッコーマン)。旧邸宅は現・上花輪歴史館として名勝「高梨氏庭園」に指定。 19代髙梨兵左衛門 寛文期に高梨家として初めて醤油醸造を始める 23代髙梨兵左衛門(高梨信芳、1749-1803) 1764年に実兄である茂木七郎右衛門と醸造蔵経営の合併を行うが、1771年に再び経営を分かち、1772年に上花輪に新蔵を建設してのちの繁栄の基礎を固める。1783年の天明の大飢饉の際に施米をして名字帯刀を許される。 28代髙梨兵左衛門(高梨信太郎) 1917年に、茂木6家、中野家と醤油経営を合同し、野田醤油株式会社(のちキッコーマンに改称)を設立。 29代髙梨兵左衛門(高梨小太郎、1878年生) 高梨周造家・宝山 1849年に高梨兵左衛門家から分家して河野権兵衛家の工場を譲り受け醤油醸造を始める。1888年に茂木七郎右衛門に工場を譲渡。 高梨孝右衛門家・丸山 1864年に高梨兵左衛門家から分家して醤油醸造を始める。1894年に茂木七郎右衛門に工場を譲渡。 高梨孝右衛門の妻は幕末の豪商伊藤八兵衛の六女おき。おきの姉の兼子は渋沢栄一の後妻。孝右衛門とおきの娘のタカ子(田中孝子)は1909年(明治42)渋沢英一渡米実業団に最年少(23歳)で随行し、のち田中王堂に嫁いだ。
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