高梨内記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/26 01:52 UTC 版)
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳[1] |
死没 | 慶長20年5月7日(1615年6月3日)[1] |
官位 | 内記 |
主君 | 真田昌幸→信繁 |
氏族 | 高梨氏? |
父母 | 父:高梨政頼? |
子 | 采女、真田信繁室 |
高梨 内記(たかなし ないき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。真田氏家臣。実名は不詳。
人物
江戸時代末期(幕末)の松代藩家臣・河原綱徳は、その著書のなかで、内記を高梨政頼の子供か子孫とし、高梨政頼の娘(もしくは妹)が真田信綱に嫁いだことを縁に真田家へ仕えたとしているが、信憑性は薄い[1]。
内記は傅役、息子の采女は乳兄弟[注釈 1]、娘は側室ということもあり、真田信繁との関係は深かった[1]。
天正13年(1585年)の第一次上田合戦で戦功を立て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以降は真田昌幸・信繁につき従い、九度山へ移った。慶長16年(1611年)に昌幸が死去した後ほとんどの家臣は九度山を去り旧領の上田に戻ったが、内記は息子とともに九度山に残り、信繁の大坂入城にも付き従った[2]。最期は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にて信繁と共に戦死したとみられている[3]。
孫で信繁三女の阿梅は大坂城落城に際して乱妨取りによって片倉重長に保護され、継室となっている[4]。但し、阿梅の母は大谷吉継の娘で信繁正室の竹林院という説もあり、この場合は内記と阿梅との間に血縁関係は無いことになる。
関連作品
脚注
注釈
出典
参考文献
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA<新人物文庫>、2016年。ISBN 978-4-04-601099-5。
- 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社<平凡社新書>、2015年。ISBN 978-4-58-285793-1。
高梨内記
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真田家の家臣。昌幸ら真田家を崇拝している。昔から昌幸を「若」と呼んでいたために昌幸が当主となり歳を取り大名となっても時折は「殿」ではなく「若」と呼んでしまうなど、少しおっちょこちょいな性格。努力家で真田家の人々のために頑張っており、そういった理由から大好物はメダカ。ゲーム最序盤から終盤まで長く活躍する。犬伏の別れでは西軍側に付く。大坂夏の陣における天王寺口の戦いに生き残ったくのいちと共に突撃する幸村に同行、銃撃を前に一時退避したところで幕府軍の増援に駆け付けた藤堂高虎らを発見、彼らの存在を幸村に伝えることに成功するものの、自らは大軍を前に討ち死にする。
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