天王寺口の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 01:14 UTC 版)
「天王寺・岡山の戦い」の記事における「天王寺口の戦い」の解説
正午頃、豊臣方毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方本多忠朝勢を銃撃した。これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。毛利勢は忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。本多勢の救援をしようと小笠原秀政、忠脩勢が駆けつけたが、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等の備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等の備はその後、丹羽長重隊に突撃した、丹羽長重隊の老兵秀重の備は「先の戦で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。 二番手榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱、これらの敗兵が雪崩込んだ三番手も同様の事態に陥ったことで、家康本陣は無防備となった。 真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の松平忠直勢と交戦していたが、松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回に渡って突撃を繰り返した。 これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。三里も逃げた旗本がいたという混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も切腹を口走り、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。大和路勢や一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。 信繁は安居神社で休息をとっていたところを討ち取られ、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷を負った。豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勢も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり城内に撤退した。 別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると松平忠直勢に突撃した後姿を消した。
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