千村平右衛門家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 10:08 UTC 版)
千村平右衛門良重は関ヶ原の戦いでの功績により、幕府の交代寄合になり、美濃国可児郡久々利村の千村陣屋を本拠地として、名古屋では武平町筋北端に、江戸は増上寺門前の三箇所に屋敷を与えられ、美濃国内の美濃国の恵那郡・土岐郡・可児郡における4,600石(後に4,400石)を知行地として給され、信濃伊那郡の天領11ヶ村(上伊那の榑木買納め5ヶ村、下伊那の榑木割納め6ヶ村)を預地とした。また天竜川流域の信州・遠州船明山榑木奉行も務めた。大坂の陣において、冬の陣では妻籠の関所や信濃飯田城の守備を務め、夏の陣では天王寺口の戦いに参戦した。元和元年(1615年)、大坂の陣終結後に江戸城への帰途、名古屋城に立寄った家康は、千村平右衛門良重と、山村甚兵衛良勝を召し出し、木曽を尾張藩に加封する旨を申し渡した。千村平右衛門良重は、木曽と隔たった信濃伊那谷と遠江北部にも所管地を有するため、尾張藩の専属になることをなかなか承知しなかった。徳川義直は同家が木曾衆を代表する家柄だけに、なんとしてでも尾張藩専属を果たそうとして。兄の将軍徳川秀忠に対して、尾張藩に属するよう命じられたいと談判に及んだ。結局、元和5年(1619年)、徳川秀忠の命令で幕府直臣(表交代寄合並)・信州伊那郡の天領の預地の支配と、遠州船明山榑木奉行のままで尾張藩の附属となった。千村平右衛門良重は信州遠州預所管理をどうするか、老中を通して将軍に伺いを立てた。これに対し、今後も支配するようにとの上意が下された。そこで、千村平右衛門良重は信濃管地は従来どおりとし、遠州奥の山を返上する代りに、同国の船明村(現在の静岡県浜松市天竜区)の榑木改役を務めたいと願い許可された。尾張藩付属の千村平右衛門家だが、同時に幕府の役職をも兼ねたため、実質的には幕府と尾張藩の両属的な立場となった。
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