久々利九人衆の抵抗
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寛文5年(1665年)3月、幕府は島原の乱以後キリシタン禁制を厳重にし宗門改めを始めた。尾張藩領でも、寺社奉行から各家臣に対し「今度宗門改めに付 頭(組頭)有之者ハ其頭ヘ 支配人有之者ハ其支配人ヘ宗門手形を差出す様」にと御触が廻った。尾張藩は、久々利九人衆に対して山村甚兵衛家、千村平右衛門家に対して手形差出すようにとの指示を出した。尾張藩によって美濃国可児郡久々利村に屋敷を与えられていた久々利九人衆の山村清兵衛家、山村八郎左衛門家、山村次郎衛門家、千村助右衛門家、千村七郎左衛門家、千村九右衛門家、原十郎兵衛家、原新五兵衛家、三尾惣右衛門家は「親、祖父の頃より、この両家の組下に仰付けられたことは聞いた事がない、今度手形を両家に差出すにおいては山村甚兵衛、千村平右衛門の組下となることであって迷惑である。私共(九人衆)の親、祖父が権現様(家康)への忠義によって取立てられた者であるから、今度の手形は直接寺社奉行へ提出をお願いしたい、もしそれが叶わない場合は名古屋城中にて何れの組下或ハ御支配へなりと所属を変えていただきたい、ただ甚兵衛、平右衛門両人宛に手形を差出す事ハ御免願いたい」と陳情した(千村家伝集・寛文五年三月一三日)。九人衆一同が相談するに「当時こそ先祖の武をまのあたり聞き知る人も多くいて、家々の規模も立つが年月が過ぎるにつれて、千石に足らぬ悲しさで両家(山村・千村)の支配のようになってしまう恐れは多分にある。そうなっては両家に知行を減少される事もあるかもしれない、それでは先祖の名を汚し、家の名折れである。そこで尾張(名古屋)へ出て勤めようではないか、その勤めの功、不功によって領知が増減するかもしれないがそれは仕方がない、もし加増すれば家の大きな幸いだし、尾張領の御蔵入となれば一統の並とみられるし、その上次男、庶子が勤める願いを出すにも名古屋にいてこそうまくいくというものであろう。こうなれば家内繁昌の基ともなる」と一決して、寛文7年(1667年)春、ひそかに尾張藩へ内達した。これについて、山村甚兵衛留帳には「九人衆は両所(山村甚兵衛家千村平右衛門家)ヘ手形差出候ハバ 組之者の様に有之云々」といっているが、彼等は組下ではないが「前々より支配人にハ相究候処に左無之様に申立候」と言っている。このことにより山村甚兵衛・千村平右衛門の両家と不和となった久々利九人衆は、久々利村の在所屋敷を残して、名古屋城下へ転住し、尾張藩の普請組寄合となった。
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