久々利九人衆の抵抗とは? わかりやすく解説

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久々利九人衆の抵抗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 10:08 UTC 版)

木曾衆」の記事における「久々利九人衆の抵抗」の解説

寛文5年(1665年)3月幕府島原の乱以後キリシタン禁制厳重に宗門改め始めた尾張藩でも、寺社奉行から各家臣対し今度宗門改めに付 頭(組頭)有之者ハ其頭ヘ 支配人有之者ハ其支配人宗門手形差出す様」にと御触が廻った尾張藩は、久々利九人衆に対して山村甚兵衛家千村平右衛門家に対して手形差出すようにとの指示出した尾張藩によって美濃国可児郡久々利村屋敷与えられていた久々利九人衆山村清兵衛家、山村八郎左衛門家、山村次郎衛門家、千村助右衛門家、千村七郎左衛門家、千村右衛門家、原十郎兵衛家、原新五兵衛家、三尾惣右衛門家は「親、祖父の頃より、この両家組下に仰付けられたことは聞いた事がない、今度手形両家差出すにおいては山村甚兵衛千村右衛門組下となることであって迷惑である。私共(九人衆)の親、祖父権現様(家康)への忠義によって取立てられた者であるから今度の手形は直接寺社奉行提出お願いしたいもしそれ叶わない場合名古屋城中に何れの組下或ハ御支配へなりと所属変えていただきたい、ただ甚兵衛、平右衛門両人宛に手形差出す事ハ御免願いたい」と陳情した(千村家伝集・寛文年三月一三日)。九人一同相談するに「当時こそ先祖の武をまのあたり聞き知る人も多くいて、家々規模も立つが年月が過ぎるにつれて千石足らぬ悲しさ両家(山村千村)の支配のようになってしまう恐れ多分にある。そうなって両家知行減少される事もあるかもしれない、それでは先祖名を汚し、家の名折れである。そこで尾張(名古屋)へ出て勤めようではないか、その勤めの功、不功によって領知増減するかもしれないがそれは仕方がない、もし加増すれば家の大きな幸いだし、尾張領の御蔵入となれば一統の並とみられるし、その上次男庶子勤め願いを出すにも名古屋にいてこそうまくいくというものであろう。こうなれば家内繁昌の基ともなる」と一決して、寛文7年(1667年)春、ひそかに尾張藩内達した。これについて、山村甚兵衛留帳には「九人衆は両所(山村甚兵衛家千村平右衛門家)ヘ手形差出ハバ 組之者の様に有之云々といっているが、彼等組下ではないが「前々より支配人にハ相究候処に左無之様に申立候」と言っている。このことにより山村甚兵衛千村右衛門両家不和となった久々利九人衆は、久々利村在所屋敷残して名古屋城下へ転住し、尾張藩普請組寄合となった

※この「久々利九人衆の抵抗」の解説は、「木曾衆」の解説の一部です。
「久々利九人衆の抵抗」を含む「木曾衆」の記事については、「木曾衆」の概要を参照ください。

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