真田の赤備え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 19:16 UTC 版)
1615年(慶長20年)、大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が自分の部隊を赤備えに編成した。敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って大坂城に入った信繁の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせて真田の武名を天下に示すことだったと言われている。武田家由来の赤備えで編成した真田隊は天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と『薩藩旧記雑録』(島津家)に賞賛される活躍を見せた。絵画としては唯一、黒田長政が『大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)』に赤備えの真田勢を家臣の黒田一成に命じて描かせている。 ただし、真田氏で赤備えを導入したのは信繫が最初ではなく、信繫の父真田昌幸が存命中の文禄2年(1593年)に豊臣秀吉から「武者揃」を命じられた信繫の兄信幸は、「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、指物はあかね」という指示を家臣に出しており、既に文禄年間には真田氏は少なくとも甲冑と指物には赤を使用していた。
※この「真田の赤備え」の解説は、「赤備え」の解説の一部です。
「真田の赤備え」を含む「赤備え」の記事については、「赤備え」の概要を参照ください。
- 真田の赤備えのページへのリンク