愛用の刀槍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 01:06 UTC 版)
現在のところ、信繁の愛用の刀槍が何であったのかは不明である。 講談や軍記物語では、信繁の愛槍は「十文字槍」とされ、これは両鎌槍を強化して作られた細めの槍である。槍の柄は朱色に塗られ、真田の赤備えに恥じぬ名槍であったと講談や軍記物語では語られている。大坂夏の陣図屏風に描かれた信繁も十文字槍を握っている。 信繁の愛刀についても、刀は正宗、脇差しは貞宗、とする話が有名だが、これは歴史書というよりも歴史小説に近い明治初期の『名将言行録』(明治2年(1869年))に登場する説である。他にも、村正の大小を帯びたという説が有名だが、こちらは噂の出処が比較的古く、徳川光圀の家臣が元禄14年(1701年)12月に著した光圀の言行録『桃源遺事』まで遡ることができる。この書によれば、光圀は、「真田信仍は東照君(家康)を宿敵と見なしてから、常に千子村正の大小(打刀と脇差の一揃い)を手放さなかった。村正は徳川家不吉の刀と聞いて、東照君を調伏(呪殺)する意図があったのだと聞く。武士とはこのように、常日頃からこのようなことにまで忠義に心を尽くすものだ」と称賛していたという。なお、実際に村正を大小で愛用していたのは、徳川家康である。こちらは噂や伝説などではなく、尾張徳川家に伝来した由緒正しいものがあり、大小のうち村正の脇差は大正時代に売却されたが、徳川家康愛用の村正の打刀は徳川美術館が所蔵し、今も展覧会などで観ることができる。信繁の兄の真田信之の家系松代藩真田家には、村正の弟子の千子正重の刀が伝来していた(信之のものかは不明)ので、信繁が村正を所有していたとしても時代考証的に不自然ではない。ただし、徳川家に祟るとする妖刀伝説が発生したのは家康の死後なので、その場合はただの業物としての村正ということになる。
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