言行録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 06:18 UTC 版)
「単純な軍国少年だった私は、大東亜の大義のため日本は絶対に勝たねばならぬと思っていた。疎開先で見た星空の広大さに圧倒されて、自分はいかに矮小な存在なのかとため息をつくような多感な少年だった」(本人談)。 「日比谷高校では同級に江藤淳が、一級上に作家の坂上弘がいた。個性豊かな秀才たちに囲まれて、刺激的な高校生活だった」(本人談)。 「戦後の混乱のなかで生家は往時の面影をなくし、私は結核を患った。そのために進学も遅れ、日比谷高校、東大と学びつつも、私の胸中には深い没落感と挫折感があった」と晩年に回顧している。 「一時期はマルクス主義に惹かれていた。文学的な表現を許していただけるなら、マルクス主義理論に"数学的証明の美しさ"を見ていた。何でも説明できるという魅力、もちろん、今から考えると、それは何も説明でないということであり、人間はそれほど単純な存在ではない。のちに立教大学から東大に戻った折、(昭和)43年の紛争時だったが、学長代行を務められた加藤一郎氏の補佐として「民青」とやり合うことになったのは、ある種の必然だったかも知れない」(本人談)。 「学者になりたいと思った。それを目指すことの本質的意味がわかっていたわけではなかったが、毀誉褒貶に関係なく、とにかく自らの信じる処にしたがって学べば道を切り開けるのではないかと考えていた。ところが、そう思っていても、私は専門一筋というわけにはいかなかった。あっちに曲がったり、こっちへぶつかったり、生きるのが下手だった。文学部で大学院に落ち、法学部でも輝かしい秀才たちの間で自信喪失に陥っていた」(本人談)。 「敗戦は彼の生家を没落させた。彼は高校時代からアルバイトをして学費を稼いだばかりか家族の生活も助けていた。彼は勤勉であった。実によく勉強をしていた。その勉強はいつも本格的で深く広く、まさに学んで飽きることがなかった」と欣子夫人は回顧している。 「小学校低学年のとき、大東亜戦争は始まり、疎開、空襲、そして焼け跡の飢えと栄養失調の戦後。私達は男女平等、平和と民主主義、基本的人権の尊重といった輝かしい理念を頼りに精一杯生きてきたのだ。…振り返ってみれば、私達の世代は確かにコミンテルンや日教組、出版放送労連といった勢力の影響下にあったが、口角泡をとばして天下国家を論じていた。私達は意気軒昂で元気だった」(欣子夫人談)。 「昭和38年、東大在学中に知り合った欣子と結婚する。今だから告白するが、体力にも能力にも自信のなかった私は、彼女の持っている活力と、真摯な生き方に惹かれた」と晩年に述べている。 「佐藤氏は偉大な教育者である。東大駒場の佐藤門下には、北岡伸一氏、舛添要一氏、御厨貴氏、田中明彦氏など、今後日本の政治思想をリードして行くに違いない人材が数多く排出している。それはもちろん、佐藤氏の学識、そしてあくまでも真実だけを追求する厳格な学問的ディシプリンの故であろうが、それ以上に、若者の中にそして人間の中に、心にすぐれたもの、心に善きものを求めてやまない佐藤氏のロマンチシズムが、接する人々の心をおのずから揺り動かしたからであると思う。おそらく、それが偉大な教育者の第一の資格なのであろう」と元駐タイ大使・岡崎久彦は弔辞を捧げた。 「佐藤氏の政治学の特色はその歴史的視野の広さにある。彼の国際政治論は、国際関係論からでなく、日本史の素養から来たものが大きい。そこで日本近代政治史をもう一度初めから洗い直す形で彼の歴史観、政治哲学を、どこかに残したいと思ったのが、対談の動機であった」と岡崎久彦氏は対談本『日本の失敗と成功 近代160年の教訓』のまえがきで述べている。 「晩年の佐藤氏は、ますます魅力のある一個の人格として完成して行かれた。晩年の佐藤先生の写真には凛然たる気品がある」(岡崎久彦評)。 「ご家族やわれわれのような友人同士の間では、温顔で心優しく、言葉遣いも丁重であったが、事、学問に関しては、いささかの論理の乱れ、発想の裏に隠されている偏見、こだわり、不純などうきなど、知的インテグリティを曇らせているいかなる小さな陰も、仮借なく激しく指摘し、攻撃された。それも文学的な表現で円みをつけることもなく、単純明快で、散文的かつ激しかった。…佐藤氏は天下の御意見番の風格を備えていた。もう敵を作ることを全く恐れていなかった。…あれほど明快に、激しく人を叱れる人は偉大な人である。少なくとも私心のない人である」(岡崎久彦評)。 「私の基本は学者である。家にいて好きな本を静かに読んでいた。書きたいことを書いていたい。学究の日々こそが、私の絶えず帰りたいと願っている世界なのだが、まだまだそうした自由はままならないようだ。権力にもお金にも縁がなくていい。思想の自由と時間の余裕があれば、それが学者冥利なのである」と晩年に述懐している。
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