大野治房
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大野 治房(おおの はるふさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。茶人。
- ^ 東京大学史料編纂所 1917, p. 935.
- ^ 『老士語録』による[1]。
- ^ a b c d 高柳 & 松平 1981, p. 62.
- ^ 加藤国光 1997, p. 163, 166.
- ^ 『慶長十六年禁裏御普請帳』による[4]。
- ^ 現在の京丹後市。
- ^ 大野定長と大蔵卿局が、天正17年(1589年)に秀吉より和泉国佐野と丹後国大野に併せて1万石を与えられたことから、所領と出生地との取り違えが起こったようである。丹後国大野に大野城という同名の城を築いたことも、混乱の原因か。
- ^ 現在の愛知県一宮市浅井町大野。
- ^ 加藤国光 編 『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、165頁。ISBN 9784797105551。
- ^ a b 福本 1921, p. 343.
- ^ a b 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 615.
- ^ 加藤国光 1997, p. 166.
- ^ 細川藤孝の次男細川興元に仕えて長岡姓を名乗る。諱は「貞安」とするものもある。
- ^ 大日本史料12編18冊383頁.
- ^ 講談『真田三代記』では、大野兄弟は悪役として脚色されていて、治房は臆病な人物として描かれており、味方を見捨てて敗走したことになっている。
- ^ 書院番2組、大番1組。
- ^ 「土屋知貞私記」
- ^ 「山本豊久私記」
- ^ 「老士語録」
- ^ 吉本健二 『真説大坂の陣』学習研究社、2005年。
- ^ 川口素生 『真田幸村は生きていた!』PHP研究所、2016年。
- ^ 史料綱文99編冊頁.
大野治房
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豊臣家の重臣。直情型の性格で、大坂城内の過激派の代表ともいうべき人物。大野治長の弟だが兄の政策に対して批判的であり、兄の無能さや優柔不断さが豊臣家に危機を招き寄せていると常々反発する。やがて兄に危害を加えるようなことを不用意に口走るようになり、そのため家来が独断で治長に手傷を負わせるという椿事も起こった。
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