天王寺・岡山合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:36 UTC 版)
詳細は「天王寺・岡山の戦い」を参照 5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。 天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000が布陣した。 これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置いた。岡山口には前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。 正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は豊臣方の真田隊・毛利隊・大野治房隊などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、いくつかの隊が壊滅し、家康・秀忠本陣は混乱に陥り、家康が切腹を一度覚悟するまでに至り、ついにはその場を逃げだすなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。唯一戦線を維持した勝永の指揮により、豊臣軍は大坂城本丸に総退却した。
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