天王寺合戦、第一次木津川口海戦とは? わかりやすく解説

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天王寺合戦、第一次木津川口海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:12 UTC 版)

石山合戦」の記事における「天王寺合戦、第一次木津川口海戦」の解説

天正4年1576年)春、顕如毛利輝元庇護されていた将軍足利義昭与して三たび挙兵した。信長4月14日明智光秀らに命じて石山本願寺三方から包囲した。しかし、包囲後も本願寺は岸(現大阪市中央区)や木津(同浪速区)から海上経由して弾薬兵糧補給しており、織田軍が木津攻めると、本願寺軍逆に1万超える軍勢をもって木津織田軍を蹴散らし天王寺付近まで攻め入った(この時に包囲軍の主将であった塙直政戦死している)。危機陥った光秀は砦に立て篭もり信長救援要請した。 この敗報聞いた信長は、すぐさま諸国陣触れ発したが、突然のことであるために兵の集結遅かった。そのため信長痺れ切らし3000ばかりの兵を連れて天王寺包囲している15000余の本願寺軍攻めかかったまた、包囲突破して砦に入ると、すぐさま光秀はじめとする内の兵等と合流して討って出た。そのため、篭城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍浮き足立って敗走し石山本願寺退却した天王寺合戦)。その後信長石山本願寺四方付城住吉浜手要害設け塙直政後任司令官佐久間信盛任命して本願寺を完全包囲下に置いた経済的に封鎖され本願寺は、毛利輝元援助要請した。輝元は要請応じ7月15日村上水軍など毛利水軍の船700から800艘(実際600程度と言われる)が兵糧弾薬を運ぶために大坂海上現れた。織田軍はすぐさま配下真鍋氏、沼野氏、宮崎氏などで構成する水軍300余艘で木津川河口封じたが、毛利水軍は数の利を生かして焙烙・火矢織田軍の船を焼き払い大勝し本願寺兵糧弾薬届けた第一次木津川口海戦)。信長仕方なく三方監視のみを強化して一旦兵を引いた

※この「天王寺合戦、第一次木津川口海戦」の解説は、「石山合戦」の解説の一部です。
「天王寺合戦、第一次木津川口海戦」を含む「石山合戦」の記事については、「石山合戦」の概要を参照ください。

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