包囲後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:47 UTC 版)
翌年、オスマン帝国が包囲中に基地として使用していたシベラス半島で、他に類を見ない要塞を備えた新しい都市が建設され、グランドマスター、ジャン・ド・ヴァレットにちなんでバレッタと名付けられた。オスマン帝国が二度と攻撃することはなかったので、要塞は決して試練にさらされることはなく、今日でもこの時代の最も保存状態の良い要塞の1つである。 島の他の支配者とは異なり、聖ヨハネ騎士団は島の外に「母国」を持っていなかった。島が彼らの故郷であるからこそ、他のどの勢力よりも多額の投資を行ったのである。また、騎士団のメンバーは貴族の出身であり、聖地に向かう人々への奉仕によって、かなりの財産を蓄えていた。この時代の建築と芸術の遺跡は、マルタの歴史の中で最も偉大なものの一つとして残っており、特に「宝の山」と呼ばれるバレッタの街には、その名残がある。 しかし、彼らの主な存在理由がなくなったため、騎士団の栄光の時代は終わりを告げた。 18世紀の最後の30年間で、騎士団は着実に衰退した。その背景には、最後のグランドマスターたちの贅沢な支配の結果、騎士団の財政が破綻してしまったことなどがある。このため、騎士団はマルタの人々からも不人気となった。 実際、1775年には「神父の蜂起」と呼ばれる反乱が起きている。反乱軍は聖エルモ砦とセントジェームス・キャバリエを占領したが、反乱は鎮圧され、指導者の何人かは処刑され、他の者は投獄されたり追放されたりしている。
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