東インド方面作戦 1778年-1783年
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「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事における「東インド方面作戦 1778年-1783年」の解説
アメリカ独立戦争の東インド諸島方面への影響には、いくつかの別個の流れが存在する。1778年、フランスの参戦に直ちに対応したイギリスはフランスの植民地ポンディシェリを2ヶ月間の包囲後に占領した。8月10日にはベンガル湾でイギリスの海軍士官の率いる部隊とフランスのM・ド・トロンジョリーとの間で小さな海戦があったが、この海域のフランス軍は攻勢に出るにはあまりに非力で、1782年の初めまでブルボン島(レユニオン島)とモーリシャス島にとどまっていた。 1781年春、フランスのピエール・アンドレ・ド・シュフラン提督が小戦隊とともに東洋に派遣された。彼はその途中、喜望峰をオランダから奪取すべく派遣されたイギリス艦隊がポルトガル領ポルト・プラヤに停泊しているのを発見し、4月16日、これを破った(ポルト・プラヤの海戦)。この攻撃は結果的に決着が付いていないが、シュフランはイギリス軍より先に喜望峰に到着し、イギリス軍の攻撃を阻止した。喜望峰の安全を確保した後、シュフランはモーリシャス島に向かい、そこで援軍となる艦船及び兵士と合流した。1782年、シュフランはベンガル湾のイギリス軍に激しい攻撃を仕掛けるべく、年の初めから活動を開始した。1782年の2月17日から1783年の6月20日まで、彼はイギリスのエドワード・ヒューズ提督と5度戦い、勢力の拮抗状態を維持したが決着のつくものではなかった。 シュフランには船を修理する港もなく、またインド・マイソールの太守ハイダル・アリー以外には同盟者が無かったにもかかわらず、北東モンスーンの時期ですらフランス領諸島に戻らず、海上行動を続けた(アリーは1778年にインド西海岸のフランス領マエ港を占領した後にイギリスとの第二次アングロ・マイソール戦争を始めていた)。シュフランは修理のためにはオランダ領アチェ港(現インドネシア)に行った。1782年7月にはスリランカのイギリス領トリンコマリーを占領した。1783年4月20日にはアメリカ独立戦争では最後の戦闘と考えられるのカッダロール沖の海戦が起こった。カッダロールではイギリス軍がフランス軍を包囲していた。ヒューズの方が優秀な艦隊を持っていたが、シュフランはヒューズが援軍を上陸させるのを阻止した。休戦の予備合意がなされたという報せによって、包囲戦と長く続いたヒューズとシュフランの戦いは終わった。
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