東インド方面作戦 1778年-1783年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 東インド方面作戦 1778年-1783年の意味・解説 

東インド方面作戦 1778年-1783年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 17:21 UTC 版)

アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事における「東インド方面作戦 1778年-1783年」の解説

アメリカ独立戦争東インド諸島方面への影響には、いくつかの別個の流れ存在する1778年フランスの参戦直ち対応したイギリスフランスの植民地ポンディシェリを2ヶ月間の包囲後占領した8月10日にはベンガル湾イギリスの海軍士官率い部隊フランスのM・ド・トロンジョリーとの間で小さな海戦があったが、この海域フランス軍攻勢に出るにはあまりに非力で、1782年初めまでブルボン島レユニオン島)とモーリシャス島とどまっていた。 1781年春、フランスピエール・アンドレ・ド・シュフラン提督小戦とともに東洋派遣された。彼はその途中喜望峰オランダから奪取すべく派遣されイギリス艦隊ポルトガル領ポルト・プラヤに停泊しているのを発見し4月16日、これを破ったポルト・プラヤの海戦)。この攻撃結果的に決着付いていないが、シュフランイギリス軍より先に喜望峰到着しイギリス軍の攻撃阻止した喜望峰の安全を確保した後、シュフランモーリシャス島向かい、そこで援軍となる艦船及び兵士合流した1782年シュフランベンガル湾イギリス軍激し攻撃仕掛けるべく、年の初めから活動開始した1782年2月17日から1783年6月20日まで、彼はイギリスエドワード・ヒューズ提督5度戦い勢力拮抗状態を維持した決着のつくものではなかった。 シュフランには船を修理する港もなく、またインド・マイソールの太守ハイダル・アリー以外には同盟者無かったにもかかわらず北東モンスーン時期ですらフランス領諸島戻らず海上行動続けたアリー1778年インド西海岸フランス領マエ港を占領した後にイギリスとの第二次アングロ・マイソール戦争始めていた)。シュフラン修理のためにはオランダアチェ港(現インドネシア)に行った1782年7月にはスリランカイギリス領トリンコマリー占領した1783年4月20日にはアメリカ独立戦争では最後の戦闘考えられるカッダロール沖の海戦起こったカッダロールではイギリス軍フランス軍包囲していた。ヒューズの方が優秀な艦隊持っていたが、シュフランヒューズ援軍上陸させるのを阻止した休戦予備合意なされたという報せによって、包囲戦長く続いたヒューズシュフラン戦い終わった

※この「東インド方面作戦 1778年-1783年」の解説は、「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の解説の一部です。
「東インド方面作戦 1778年-1783年」を含む「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事については、「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東インド方面作戦 1778年-1783年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東インド方面作戦 1778年-1783年」の関連用語

東インド方面作戦 1778年-1783年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東インド方面作戦 1778年-1783年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアメリカ独立戦争の海軍作戦行動 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS