東インド共産党への改名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/11/11 19:18 UTC 版)
「東インド共産党」の記事における「東インド共産党への改名」の解説
ISDV内でスマウンら「原住民」党員の数が急激に増加したため、組織内ではオランダ人・欧亜混血児より「原住民」党員たちの発言力が強まった。 ISDVは、1920年5月の第7回大会で、党名をインドネシア語の「東インド共産主義同盟 Perserikatan Kommunist di India」に変更した。その大会の役員投票で、議長スマウン(Semaun)、副議長ダルソノ(Darsono)、書記ベルフスマ、会計ダウエス・デッケルとする新指導部が発足した。1920年12月にはコミンテルン加盟を決議し、党名をさらに「東インド共産党 Indische Communistische Partij」(オランダ語)に変更した。 1920年代初頭は東インドで労働運動、ストライキが頻発し、東インド共産党も、工場労働者組合、鉄道電車職員組合などの労働運動を中心に活動を展開していった。ところが、労働運動内でのサレカット・イスラームと東インド共産党の勢力争いが激しくなると、1921年10月、サレカット・イスラームは組織内の共産党員を除籍する決定を下し、労働運動、さらには反植民地主義運動は大きく二派に分裂することになった。また、東インド政府は1923年5月にスマウンを逮捕、東インドから追放するなど、共産党幹部を次々と追放した。 東インド共産党は、こうして有力な党幹部を失いながら、1924年6月、バタヴィアで開かれた第二回党大会で、党の名称を「インドネシア共産党 Partai Komunis Indonesia(略称PKI)に改めることになった(その後の経緯についてはインドネシア共産党を参照)。
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