東インドとヨーロッパ諸国にて
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「ナサニエル・ラクソール (初代準男爵)」の記事における「東インドとヨーロッパ諸国にて」の解説
1769年にイギリス東インド会社にライターとして雇用され、ボンベイに向かった。1771年に行われたグジャラートとバルーチへの遠征で軍法会議判事と支払長官を務めた。翌年に退職して帰国したのち、ポルトガル王国の宮廷、ついでヨーロッパ北部諸国の宮廷を訪れた。1774年9月にツェレでイギリス国王ジョージ3世の妹兼デンマーク=ノルウェー王妃キャロライン・マティルダに面会したのち、アルトナとハンブルクを訪れた。ラクソールがキャロライン・マティルダへの同情を表明したため、キャロライン・マティルダを支持して国外追放されたデンマーク貴族(フリードリヒ・ルートヴィヒ・エルンスト・フォン・ビューロー(デンマーク語版)男爵、エルンスト・ハインリヒ・フォン・シメルマン(英語版)男爵など)と知り合いになった。ビューローとシメルマンはデンマーク=ノルウェー王クリスチャン7世を廃位してキャロライン・マティルダを王位に就かせることを計画しており、計画にジョージ3世の支持が不可欠であると考えたため、ラクソールにキャロライン・マティルダとジョージ3世の仲介を求めた。ラクソールは求めに応じて、ジョージ3世にキャロライン・マティルダへの支持を説得することを許諾した。ラクソールは2人の間を根気強く行き来して仲介に努め、ついにジョージ3世が留保つきで計画を支持すると明記された文書を取得して、1775年2月15日にそれをキャロライン・マティルダに届けた。4月にイングランドに戻ってジョージ3世への謁見許可を求め、より確固とした支持を確保しようとしたが、ロンドンのジャーミン・ストリート(英語版)で返答を待っている最中、5月19日に「キャロライン・マティルダが5月11日に死去した」との報せを受けた結果、これらの努力は水の泡に帰した上、ラクソールの支出が補填されることもなかった。ラクソールは支出の補填についてジョージ3世に手紙を出して請求したが、このときはジョージ3世に顧みられることはなかった。同1775年、ヨーロッパ北部諸国の紀行文Cursory Remarks made in a Tour through some of the Northern Parts of Europeを出版した。 1776年にもロンドンに滞在し、チャールズ・ディリー(英語版)の邸宅で行われたウィリアム・ドッド(英語版)、ジョン・ウィルクス、サー・ウィリアム・ジョーンズ、ジャン=ルイ・ド・ロルム(英語版)らとの会合に参加した。ドッドは文書偽造で1777年5月に死刑判決を受けてニューゲート監獄に投獄されると、ラクソールに初代ニュージェント伯爵ロバート・ニュージェント経由で恩赦を求めることを依頼した。 1777年、竜騎衛兵隊第3連隊(英語版)隊長ロバート・マナーズ卿(英語版)の申請により、ラクソールは中尉の名誉階級を授けられた。これにより、ラクソールは軍務についたことがなかったにもかかわらず軍服を着る権利を与えられた。同年夏にデン・ハーグを訪れ、そこでオラニエ公ウィレム5世に謁見した。同年にMemoirs of the Kings of France of the Race of Valois(ヴァロワ家のフランス王伝)を出版、さらにフランスでの旅について記述した寄稿文も付した。その後、1778年にドレスデンを、1779年にナポリを訪れた。1779年に竜騎衛兵隊第3連隊の制服を着てフィレンツェの劇場を訪れたとき、チャールズ若僭王に遭遇した。チャールズはほろ酔いの状態だったが、ラクソールに近づいて制服に気づくと、すぐに立ち止まり、帽子を外して敬礼したという。
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