東アフリカ戦線
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東アフリカ戦線
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詳細は「東アフリカの戦い」を参照 1940年6月、東アフリカにも200機-300機位のイタリア空軍機が展開していた。これらの航空機のうちの一定数は骨董品的に古いものであったが、比較的新しい機種であるサヴォイア・マルケッティのSM.79やSM.81、それにフィアットCR.42も装備されていた。この時点ではまだCR.42は前線で使用できる水準に留まっていた。加えてイタリア空軍は広大な植民地を管理する英国とは違い、東アフリカに強固な航空基地を建設していたので、英国および連邦軍より良好な離着陸場を確保することに成功していた。従って戦争が始まったとき、イタリアのパイロットは訓練された腕前を英軍に見せ付ける事になった。 しかしイタリア本土から遠くから切り離された状況は、ただでさえ慢性的な燃料と工業力不足に苦しむイタリア王国軍内でも、とりわけ深刻な燃料・部品の欠乏を引き起こした。対する英軍は(全ての戦線でそうであった様に)対照的に各地から潤沢な物資を運び込み、状況を改善していった。1940年1月31日、イタリア東アフリカ軍総司令官アオスタ公アメデーオは、67機の戦闘機とわずかな燃料を残すのみとなった、と司令部に報告した。東アフリカ航空戦での不均衡な消耗戦によってイタリア空軍は戦力を磨り減らされたが、それでもイタリア人パイロットは善戦を続けた。 1941年10月24日、アオスタ公アメデーオが東アフリカ軍の残余と共に降伏する1ヶ月前、最後の東アフリカ航空隊の戦闘機が撃墜された。
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