アフリカの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:44 UTC 版)
1940年9月、東アフリカ戦線への援護、及び対英戦を主目標に掲げていたドイツの要請により、ムッソリーニは、イタリア領リビアに駐留するイタリア陸軍に対し、伊領リビアと接するエジプト王国(建前上は独立国であったが元英国保護領でもあり英軍が駐留していた)への侵攻を命令した。ドイツ側からの要請という事もあり、ヒトラーからは独伊両軍による遠征が提案されていたが、ムッソリーニはこれを拒絶しイタリア単独でのエジプト遠征を計画した。 ムッソリーニの決断の根拠はリビア方面軍の数的優位であったが、実態としては機械化されていない徒歩歩兵と脆弱な戦車部隊しか持たず、イタロ・バルボ元帥、ロドルフォ・グラツィアーニ元帥ら現地司令官は単独での英軍への勝算はないと通告している。しかしムッソリーニは強権を発動してグラツィアーニに強制的に進軍を命令、4個軍団からなる遠征軍が国境から100km以上の地点まで進出した。だが程なく司令官達の危惧通り英軍は機動戦による反撃を開始、徒歩移動で難渋する遠征軍は組織だった抵抗ができず、包囲殲滅の憂き目を見る事になった。 ムッソリーニが考えを改めてヒトラーからの提案を遅れて受け入れると、エルウィン・ロンメル元帥を指揮官とするドイツの援軍が到来した。イタリア陸軍も、新たに開発された突撃砲や中戦車で補強された第185空挺師団「フォルゴーレ」(英語版)・第132装甲旅団「アリエテ」(英語版)などの精鋭部隊が雪辱に向けて奮戦、第二次エル・アラメイン会戦でチャーチルから「獅子の如き勇戦」と賞賛される戦いを見せた。最終的には物量で反撃に転じた連合軍に押し切られ敗北するが、北アフリカの枢軸軍が降伏した後もイタリア陸軍の残党兵はゲリラ兵化して、連合軍の飛行場を破壊するなど活動を続けている。 同じアフリカに位置する東アフリカ戦線では、第3代アオスタ公爵アメデーオ率いるイタリア兵の守備隊が各地を転戦しながら激しい抵抗を続け(ケレンの戦い en:Battle of Keren)、戦史家コートマン・マッケンジーは「『ドイツ軍の落下傘兵』と『ビルマ戦線の日本兵』と共に、『カレンのイタリア兵』はイギリス兵を怯えさせた相手だった」と評している。
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