トーチ作戦とダルランの降伏
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「トゥーロン港自沈」の記事における「トーチ作戦とダルランの降伏」の解説
(1940年~43年 北アフリカの戦い) (1942年11月8日 トーチ作戦)も参照 1942年11月8日、北アフリカのカサブランカ、アルジェ、オランに連合国軍が上陸した。オランとカサブランカでは在地フランス軍との間に戦闘が発生したが、アルジェにたまたまフランス軍総司令官兼海軍大臣にしてペタンの後継候補と目されるダルラン提督が居合わせたこともあって、10日までに現地での停戦協定が発効した。ところが事態はそれだけに留まらなかった。ダルラン提督は北アフリカのフランス軍が連合国軍に加わることに同意し、トゥーロンのド・ラボルド大将に向けて命令を発したのである。 「直ちに全艦隊を率いて、北アフリカの英・米軍占領の港へ急行せよ。途中、英国艦隊の一部はフランス艦隊を護衛する予定である。至急、出港せよ」 しかし、艦隊は従わなかった。この状況では相手がドイツではないだけで、敵の軍門に降ることに変わりはなかった。加えて艦隊はドイツから妨害工作として燃料・人員の充足率を低く抑えられていたので、脱出も難しくなっていた。どちらの「敵」にも軍艦を渡さないために取れる方策は、限られていた。 一方、ヒトラーは北アフリカのフランス軍降伏の報を受け、アントン作戦の発動を命令した。作戦は11日に開始され、ブラスコヴィッツ上級大将指揮下のドイツ第一軍(第7戦車師団、第327歩兵師団)が大西洋沿岸をスペイン国境まで南下、同時にフェルバー大将指揮下の軍支隊"フェルバー"(第10戦車師団、第161歩兵連隊)はヴィシーを急襲した。またイタリア第四軍が11日にコート・ダジュールを、13日にはコルシカ島を占領した。しかし、この時点でなおドイツ、イタリア両軍にはフランス艦隊の脱出を阻止する用意ができていなかった。このため現地のドイツ軍には艦隊を刺激しないよう、マルセイユとトゥーロンへの進軍を控える命令が出されていた。
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