トーティラの元での東ゴート族の再起 (541年 - 543年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)
「ゴート戦争」の記事における「トーティラの元での東ゴート族の再起 (541年 - 543年)」の解説
三つの要因がトーティラによる東ゴート王国再興に有利に働いた。第一は542年に帝国領内で発生した黒死病の流行 (en) により、帝国の人口が激減したこと。第二は対ペルシャ戦争 (en) の勃発。第三はイタリアに駐留する帝国の将軍の不統一と無能である。ユスティニアヌス帝に急き立てられたコンスタンティーヌ将軍とアレクサンダー将軍が兵を併せてヴェローナへと進軍した。彼らは内応によって城門を奪取できたが略奪の分け前を巡って諍いを起こしてしまい、東ゴート軍は城門を奪回し東ローマ軍を退かせた。トーティラはファヴェンチィア (Faventia :現ファエンツァ)の野営地を急襲して東ローマ軍を撃破する。その後、トーティラはトスカーナへと進撃し、フィレンツェを包囲した。ヨハネス、ベッサそしてキプリアンの3人の東ローマ将軍が救援に向かったが、数に勝る彼らは敗北し、潰走した。 兵力で劣り、ただ一度の敗戦で破滅しかねない危険があるにもかかわらずトーティラは中部イタリアに留まることなく、東ローマ軍の守備隊が少なく弱体な南部へ進軍することを決めた。彼はローマを迂回し、南イタリア諸州は制圧された。この戦役はトーティラの戦略の要点をよく現わしている。迅速な行軍により農村部を支配し、東ローマ軍は孤立した沿岸部の拠点に取り残され、やがてその数を減らすことになる。城塞が陥落すると城壁を破壊して軍事的価値を無くす。さらに意図的に捕虜を丁重に扱い、これにより抵抗して死ぬよりも降伏することを誘うようになる。そして、イタリアの住民たちの支持を得るよう積極的に働きかけた。同時にトーティラの活動によって税収は彼の懐に収まり、イタリアにおける帝国の財政は危機に瀕し、東ローマ兵への給与が滞るようになった。 トーティラはコノン将軍が兵1,000を率いて守るナポリに兵を進めた。新任された管区軍司令官ディミトリオスがシチリアから大規模な救援軍を派遣したが東ゴート艦隊の迎撃を受けてほぼ全滅した。ディミトリオスは第2次救援軍を送り込もうとしたが、強風により艦隊の船が座礁してしまい、そこへ東ゴート軍が襲い掛かり壊滅させられた。絶望的な事態を知ったナポリの守備隊に対して、トーティラは降伏すれば退去の安全は保証すると約束した。飢餓に苦しめられていたコノンはこれを受入れ、543年4月上旬にナポリは降伏した。
※この「トーティラの元での東ゴート族の再起 (541年 - 543年)」の解説は、「ゴート戦争」の解説の一部です。
「トーティラの元での東ゴート族の再起 (541年 - 543年)」を含む「ゴート戦争」の記事については、「ゴート戦争」の概要を参照ください。
- トーティラの元での東ゴート族の再起のページへのリンク