黒死病の流行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:22 UTC 版)
「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「黒死病の流行」の解説
1347年末に黒死病がイングランドに上陸し、1348年末までにはロンドンに黒死病が到達した。翌1349年は黒死病が最も猛威を振るった年で、2月に予定されていた議会も「突然発生した死をもたらす疫病」により延期となっている。1348年から1349年に広まった黒死病により全イングランドで膨大な数の人が命を落とした。教会も世俗権力も死亡者数の記録を残していないため、死者数の正確な数を割り出すことは困難だが、土地譲渡数からの推計で人口の30%から45%が黒死病で死んだであろうとする推定がある。イングランドの人口はこの黒死病で激減した後、14世紀を通じて黒死病の再流行を繰り返して減少を続け、世紀末には黒死病発生以前の人口の半分である200万人にまで落ち込んでいた。 エドワード自身は危機的な時期ロンドンを離れてキングズ・ラングリーとウッドストックの荘園の館で過ごし、黒死病を患うのを避けた。 黒死病による危機的な社会状況にも限らず、当時のエドワード3世の権威は強固だったので政府の権威が傷つくことはほとんどなく、議会の政治的合意が損なわれることもなかった。エドワードはクレシーの戦いの大勝により軍事指揮官として名声を確立しており、議会は珍しく王を賞賛して調達された資金の全てが有益に使われたと認めたほどである。そのためエドワードは議会から安定的な臨時課税の承認が見込めたし、1340年代と1350年代には財務府長官(後に大法官)のウィンチェスター司教(英語版)ウィリアム・エディントン(英語版)の働きのおかげで王庫の金欠状態が回復し、黒死病が襲った時期にも徴税が続けられ、財政的に非常に安定していた。 黒死病による労働力不足に付け込んで多くの労働者が賃上げを要求するようになり、それに成功した労働者は労働者階層にふさわしくない贅沢な身なりや生活をするようになり、社会問題化した。年代記作者ヘンリー・ナイトンは当時の状況を「労働者は酷く思い上がって従順でなくなり、王の命令にまったく敬意を払わない。労働者を雇いたければ彼らの要求に屈するしかない」と表現している。農業労働者も同様であり、より高い賃金を要求して農業労働者の移動が激しくなった。土地所有者たちはこれに憤慨し、国王エドワードに労働者の不当な賃上げ要求を許さない法律の制定を求めるようになった。この声に応えて1351年に労働者規制法(英語版)を制定して賃金率を固定し、農業労働者の移動の抑制を図った。さらに1363年にはぜいたく禁止法(英語版)を制定し、労働者階級が身分にふさわしくない身なりや生活をするのを規制しようとした(たとえば職人の男女が毛皮を着たり、流行の先のとがった靴を履くなど)。だがあまり効果は上がらなかったという。 黒死病の流行で戦争継続が困難となったため、1354年4月にアヴィニョンでフランスとの和平交渉を試みた。「アンジュー帝国」再興を夢見るエドワードは、自分がフランス王位を要求するのを止める条件としてアキテーヌ領有を認めること、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲、これらの領土にフランス王が封主とならないことを要求したが、フランス王ジャン2世は拒否したので交渉は決裂、戦争継続となった。
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