黒母衣衆の筆頭
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信秀没後は織田信長にも仕え、黒母衣衆の筆頭を務める。永禄元年(1558年)、信長が弟の織田信勝(信行)を謀殺するために清洲城へ呼び寄せたときには、青貝某とともに信勝の殺害を実行した。 永禄3年(1560年)5月に桶狭間の戦いに参加する。急遽出陣した信長に織田造酒丞・岩室重休・長谷川橋介・山口飛騨守・加藤弥三郎等と共に真っ先に従った。なお通説では毛利良勝が今川義元を討ち取ったとされるが、討手を秀隆とする異説も存在する。 永禄8年(1565年)夏期、丹羽長秀と共に美濃猿啄城攻めを命じられる。城主・多治見修理亮は地の利を生かしてよく城を守ったが、長秀が隣山を占拠して水源を絶ち、秀隆が猛攻を仕掛けて落城させた。 同年9月28日の堂洞城攻めでは激戦の中、本丸に一番乗りするという武功を挙げ、岸信周を自害に追い込んでいる。 戦後、美濃攻めでの一連の功により猿啄城を与えられ、城名を「勝山城」と改称する。勝山入城後は、城下の坂祝町・長蔵寺を河尻氏の菩提寺と定めた。また戦火で全焼した大泉寺の復興も支援したとされる。 永禄12年(1569年)、坂井政尚と共に今井宗久に堺北庄の証文を引き渡すように申し伝える使者として派遣されている。 同年8月、伊勢北畠氏の大河内城攻めに参加する。この時は「尺限廻番衆」として菅屋長頼、塙直政、中川重政、前田利家等と共に張り巡らされた柵内の巡回を担当した。 同年9月6日付けの今井宗久から織田家諸将(佐久間信盛、木下秀吉、柴田勝家、坂井政尚、河尻秀隆、金森長近、中川重政、津田一安、丹羽長秀、武井夕庵)へ向けた陣中見舞いの書状案にその名がみえている。 元亀元年(1570年)2月19日、堺の今井宗久から安宅神太郎が淡路で三好三人衆方を破ったことについて急報を受けている。書状案では金森長近、武井夕庵、坂井好斎、菅屋長頼と並べて名が記されており、当時信長の代表的な側近と認識されていたことがわかる。 同年3月6日、中山孝親と甘露寺経元が信長を訪問したが不在のため秀隆が応対し、礼として30疋を受け取っている。 同年6月28日、姉川の戦いに従軍し、本戦後の磯野員昌が籠城する佐和山城攻めでは付城の一つである西彦根山に布陣した。 同年9月の志賀の陣では佐久間信盛、明智光秀、村井貞勝、佐々成政等と共に穴太の砦に入り、比叡山延暦寺包囲の一角を担った。 元亀2年(1571年)2月、磯野員昌が退去した後の佐和山城に入城し、以後は丹羽長秀と共に城将として活動する。 同年9月、信長は比叡山焼き討ちに際して比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、秀隆は丹羽長秀と共に湖東三山の西明寺に焼き討ちを行った。 21日には前年の野田城・福島城の戦いで本願寺方に内通した高宮右京亮の一族郎党を佐和山城に召喚し誅殺した。高宮も先手を打って切って出たが別段の支障なく成敗されたという。その直後には丹羽長秀・秀隆の連名で多賀社に条規を下し、安全を保障して混乱を防ぐとともに高宮が預けていた物品を没収している。さらに高宮寺に竹木の保護を許可しており、この地域に一定の権益を与えられていたようである。 元亀3年(1572年)10月、武田信玄の敵対を知った信長の命を受け、織田信広と共に岩村城を占拠して信長の四男・坊丸(織田信房)を遠山家の養子に据えた。11月には岐阜城に詰めていた佐久間信盛が徳川家康の援軍として浜松へ派遣され、手薄になった岐阜城の防衛強化のために信広、秀隆は帰還する。その直後、信長の強引な手法に反感を持っていた遠山家臣らは岩村城に軍勢を引き入れ武田方に寝返った(元亀3年、岩村城の戦い)。翌年3月には秋山虎繁が入城しておつやの方と祝言を上げ、坊丸は人質として甲斐に送られている。 天正元年(1573年)11月、佐久間信盛等と共に、足利義昭に与した三好義継を若江城に攻めて自害に追い込んだ(若江城の戦い)。 同年12月2日昼、塙直政、梁田政綱、今井宗久と共に堺の豪商・津田宗及邸を訪問し、茶と料理を振舞われている。
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