黒水部への侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/22 09:27 UTC 版)
黒水部は元来勿吉の後裔とされ靺鞨七大部族の一つに数えられた部族である。高句麗滅亡に際しては南下政策を採用し唐と対立していたが、仁安4年(722年)に族長の倪属利稽が唐に朝貢してからは友好関係に転じた。後にこの地には黒水府が設置され、倪属利稽も李献誠という漢名を下賜され雲麾将軍に任命されて、渤海と同等の政治的立場に置かれていた。 黒水部と唐との密接な関係に武王は渤海を脅かす存在と不安を抱き黒水部へ侵攻する計画を立案した。しかしこの計画は渤海統治層を主戦派と反対派に分裂させることとなった。武王の弟の大門芸は長期にわたり長安に宿衛していたため唐の国力を十分に承知しており、渤海も唐に帰順すべきとの態度を表明した。しかし武王は国土拡張に自信を有しており、大門芸を主将、母の兄弟の任雅を副将に任じて黒水部への侵攻を命じた。しかし出兵にあくまでも反対した大門芸は後に軍職を解任され、従兄の大壱夏によって命を狙われるに至り唐へと亡命している。この際の黒水部への出兵は、黒水部に大きな打撃を与える結果となり、渤海北方の政治的地勢は安定することとなった。
※この「黒水部への侵攻」の解説は、「大武芸」の解説の一部です。
「黒水部への侵攻」を含む「大武芸」の記事については、「大武芸」の概要を参照ください。
- 黒水部への侵攻のページへのリンク