黒水靺鞨とは? わかりやすく解説

黒水部

(黒水靺鞨 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 18:40 UTC 版)

勿吉七部(靺鞨七部)の民族系統。勿吉七部(靺鞨七部)の粟末靺鞨の系統が渤海国に発展し、勿吉七部(靺鞨七部)の黒水靺鞨の系統が金に発展している。

黒水靺鞨(こくすいまっかつ)は、ツングース系民族とする靺鞨七部の一派で、その主体である黒水部のほか16部が存在し、その主要な部落は次の通りである。

725年の安東都護の薛泰は、黒水靺鞨に黒水州都督府を置き、その首領を都督とし、各部部族長を刺史として、この地を監督することを奏上した。後に、渤海が強盛となり、唐が衰微すると、その南部の拂涅、虞婁、越喜、鉄利部などは、渤海に併合された。契丹の興隆後、契丹人は、彼らを女真(女直)と呼び始め、靺鞨の名前は使われなくなった。

関連項目


黒水靺鞨

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靺鞨」の記事における「黒水靺鞨」の解説

武徳5年622年)、渠長の阿固郎が唐に来朝太宗貞観2年628年)に臣附したため、唐はその地をもって燕州とした。高句麗討伐戦唐の高句麗出兵)ではその北部で反き、高句麗連合した高句麗の高恵真らは衆を率いて安市城を援け靺鞨は常に前線戦った唐軍安市城を破り、高恵真を捕え、靺鞨の兵3千あまりを収めて悉くこれを生き埋めにした。 開元10年722年)、黒水靺鞨酋長の倪属利稽が唐に来朝玄宗は彼を勃利刺史拝した開元13年725年)、安東都護の薛泰が黒水靺鞨内に黒水軍を置くことを請願したため、唐はその最大部落をもって黒水府とし、その首領都督とし、諸部の刺史はこれに隷属した。また唐は長史置いてその部落を監領させた。 開元16年728年)、唐は黒水都督に唐の国姓である李氏を賜い、名を献誠とさせ、雲麾将軍黒水経略使授け幽州都督をもってその押使とした。 後に渤海国強盛になると、黒水靺鞨はこれに役属したが、唐に対してもたびたび使者送って朝貢をした。 五代十国時代渤海国契丹によって滅ぼされると(926年)、黒水靺鞨は契丹附属した。やがて、黒水靺鞨の中でも南に在って契丹属した者たちは熟女直と号し、北に在って契丹に属さなかった者たちは生女直と号すようになる

※この「黒水靺鞨」の解説は、「靺鞨」の解説の一部です。
「黒水靺鞨」を含む「靺鞨」の記事については、「靺鞨」の概要を参照ください。

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