黒水部
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黒水靺鞨(こくすいまっかつ)は、ツングース系民族とする靺鞨七部の一派で、その主体である黒水部のほか16部が存在し、その主要な部落は次の通りである。
- 思慕部 - 現在のロシアのブレヤ川とアムグン川上流地区
- 郡利部 - アムール川河口
- 窟設部 - 沿海州北部
- 莫曳皆部 - 沿海州東南部
- 拂涅部 - 牡丹江下流以東、現在の黒竜江省密山市周辺
- 虞婁部 - ハンカ湖以東
- 越喜部 - ウスリー川以東
- 鉄利部 - 現在の依蘭県周辺、渤海人とともに出羽国を訪れたことが『続日本紀』に見える
725年、唐の安東都護の薛泰は、黒水靺鞨に黒水州都督府を置き、その首領を都督とし、各部部族長を刺史として、この地を監督することを奏上した。後に、渤海が強盛となり、唐が衰微すると、その南部の拂涅、虞婁、越喜、鉄利部などは、渤海に併合された。契丹の興隆後、契丹人は、彼らを女真(女直)と呼び始め、靺鞨の名前は使われなくなった。
関連項目
黒水靺鞨
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武徳5年(622年)、渠長の阿固郎が唐に来朝。太宗の貞観2年(628年)に臣附したため、唐はその地をもって燕州とした。高句麗討伐戦(唐の高句麗出兵)ではその北部で反き、高句麗と連合した。高句麗の高恵真らは衆を率いて安市城を援け、靺鞨は常に前線で戦った。唐軍は安市城を破り、高恵真を捕え、靺鞨の兵3千あまりを収めて悉くこれを生き埋めにした。 開元10年(722年)、黒水靺鞨酋長の倪属利稽が唐に来朝、玄宗は彼を勃利州刺史に拝した。 開元13年(725年)、安東都護の薛泰が黒水靺鞨内に黒水軍を置くことを請願したため、唐はその最大部落をもって黒水府とし、その首領を都督とし、諸部の刺史はこれに隷属した。また唐は長史を置いてその部落を監領させた。 開元16年(728年)、唐は黒水都督に唐の国姓である李氏を賜い、名を献誠とさせ、雲麾将軍兼黒水経略使を授け、幽州都督をもってその押使とした。 後に渤海国が強盛になると、黒水靺鞨はこれに役属したが、唐に対してもたびたび使者を送って朝貢をした。 五代十国時代、渤海国が契丹によって滅ぼされると(926年)、黒水靺鞨は契丹に附属した。やがて、黒水靺鞨の中でも南に在って契丹に属した者たちは熟女直と号し、北に在って契丹に属さなかった者たちは生女直と号すようになる。
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