莫曳皆部とは? わかりやすく解説

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莫曳皆部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 16:35 UTC 版)

勿吉七部(靺鞨七部)の民族系統。勿吉七部(靺鞨七部)の粟末靺鞨の系統が渤海国に発展し、勿吉七部(靺鞨七部)の黒水靺鞨の系統が金に発展している。

莫曳皆部 (ばくえいかいぶ)(モエジェブ)は莫曳靺鞨(ばくえいまっかつ)ともいい、代の靺鞨七部の一派である黒水部から生まれた黒水靺鞨十六部族の一つであった。現在の黒龍江下流右岸のトゥムニン河周辺から豆満江地域まで含む沿海州南部に位置する。北東アジアの海上航路において重要な地点であり、開元年間(713-741年)には黒水都督府に属し唐王朝の統制下にあった。

歴史

莫曳皆部はへの朝貢支配にあったが、仏涅や粟靺など他の靺鞨グループが間にあったために地理的に唐朝との疎通が遮断されており、726年唐朝の玄宗が設置した黒水都督府に他の靺鞨の族長を介したの間接的な統治が行われていた[注釈 1]。莫曳皆族の漁猟や狩猟が生業の中心で、流鬼国オホーツク人)などと樺太やカムチャッカ方面の間の交易を行っていた[2]

国が変わり他の靺鞨族が渤海国の管轄になってからも渤海に設置された7つの県と州はこのリストには記載されていないことから莫曳皆部は渤海の直接管轄制度に完全に組み込まれていなかった。郡利部窟説部同様に渤海の滅亡まで半独立を維持していた[3]

莫曳皆部の位置は豆満江地域の発掘調査などによって豆満江地域含めた沿海州南部にほぼ比定されてはいるが、中国の歴史書「新唐書」(北夷伝)を論拠にしたサハリン南部を莫曳皆部とする説も根強くあり、サハリンの最も古い文献に当時サハリンに居住していたアイヌ系サハリン住人(骨嵬・庫葉)の出身地として「莫曳皆」の記載があったとしている[4]

 初め黒水の西北に思慕部があり、さらに北に十日行くと郡利部があり、東北に十日行くと窟設部があった。これはまた屈設とも号した。それからやや東南に十日行くと莫曳皆部があった。また払涅鉄利虞婁越喜などの部があった。その地は、南は渤海を踊り、北と東は海に際まり、西は室韋にあたる。南北の長さは二千里で、東西は千里である。払涅・鉄利・虞婁・越喜はときどき中国に通じたが、郡利・屈設・莫曳は自ら通ずることが出来なかった。いまその京師に来朝しているものを左に附記する。(『新唐書』巻二百一十九 列伝第一百四十四)

脚注

注釈

  1. ^ 莫曳皆は郡利や窟設と連合してことにあたることが多く単独で朝貢関係を築くことは難しかった。三部族には非ツングース言語であったり毒矢を得意としたり文化的共通性もあった[1]

出典

  1. ^ 王万志(2022)
  2. ^ 和田清 (1955) pp.109
  3. ^ 李秀蓮 (2025)
  4. ^ ガオ・ウェンデ(1995) pp.212

参考文献




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