山口飛騨守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/31 06:05 UTC 版)
山口 飛騨守(やまぐち ひだのかみ、生年不明 - 元亀3年12月22日(1573年1月25日))は戦国時代の武将。諱は不詳。織田信長に小姓として仕え、永禄年間の初めには赤母衣衆に入っている[1]。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、信長が夜明けに行軍を開始した当初、岩室重休・長谷川橋介・佐脇良之・加藤弥三郎とともにわずか5人で従った[2]。永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、佐脇らと共に尺限廻番衆となる[3]。
その後信長より不興を買い、長谷川・佐脇・加藤と織田家を出奔。ともに徳川家康のもとに身を寄せた。その際の待遇は不明であるが、元亀3年12月22日(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦いに参戦し、長谷川・佐脇・加藤とともに討死した[4]。
なお、『甫庵信長記』では、信長が弟信行(信勝)を謀殺した際、初めに斬りつけた3人のうちの1人となっているが、『信長公記』にはその記載はなく定かではない[5]。これを誤りと推測する見解もある[6]。
登場作品
- 小説
脚注
- ^ 高木文書
- ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「今川義元討死の事」
- ^ 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」(池田家本)。町田本には記載なし。
- ^ 太田牛一 『信長公記』 巻五 「味方か原合戦の事」
- ^ 『甫庵信長記』では、山口飛騨守・長谷川橋介・川尻青貝の3人がまず斬りつけ、信行が土田御前のいる方へ逃げようとしたところを、池田恒興が捕らえてとどめをさしたことになっている。しかし、信頼性の高いとされる『信長公記』では河尻青貝とのみあり、これは河尻秀隆と青貝(不詳)の2名と考えられている
- ^ 谷口克広 「山口飛騨守」『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、2010年、第2版、516頁。ISBN 9784642014571。
固有名詞の分類
- 山口飛騨守のページへのリンク