湯目景康とは? わかりやすく解説

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湯目景康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 23:46 UTC 版)

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湯目景康
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄7年(1564年
死没 寛永15年2月17日1638年4月1日
改名 智喜力(幼名)→湯目景康→津田景康
別名 又次郎、豊前
戒名 瑞光院殿真菴天祥大居士
墓所 佐沼西館跡(宮城県登米市
官位 民部少輔[1][2]豊前
主君 伊達輝宗政宗忠宗
仙台藩
氏族 湯目氏→津田氏
父母 父:湯目重康、母:大津光本娘
正室:高泉隆景娘・西
津田頼康、高泉定康、笠原盛康、
津田行康、津田千兼
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湯目 景康(ゆのめ かげやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将伊達氏家臣。同名の孫(津田玄蕃景康)と区別するため津田豊前景康と表記される。

出自

湯目氏は陸奥国長井郡国人南北朝時代に伊達氏が長井郡を攻略するとその家臣となった。

生涯

永禄7年(1564年)、長井郡筑茂城主・湯目重康の子として生まれる。天正5年(1577年)、伊達政宗が元服するとその側近となり、人取橋の戦い摺上原の戦い葛西大崎一揆鎮圧戦などに従軍。天正19年(1591年)、政宗が岩出山に転封されると栗原郡佐沼城主となり、1,500石を知行する。

文禄4年(1595年)、政宗が秀次事件に関与したとして謹慎を命じられた際には、中島宗求と共に伏見の津田が原にて豊臣秀吉に直訴し、処分を解くことに成功した。この功により景康は1,000石を加増されると共に、政宗から津田が原に因んで「津田」の姓を与えられ津田景康と改名した。

慶長5年(1600年)には奉行に任命され、慶長15年(1610年)に亘理郡坂元城主となるが、元和2年(1616年)には大坂夏の陣での功により3,800石に加増されて再び佐沼城主となった。寛永13年(1636年)、政宗の跡を継いだ仙台藩2代藩主・伊達忠宗により評定役に任命され、奉行職は嫡男・頼康が引き継いだ。

寛永15年(1638年)2月17日、死去。享年75。

系譜

  • 父:湯目重康
  • 母:大津光本の娘
  • 正室:西(高泉隆景の娘)
    • 津田頼康
    • 高泉定康(高泉隆景の養子)
    • 笠原盛康(笠原隆康の養子)
    • 津田行康
    • 津田千兼

脚注

  1. ^ 『伊達政宗記録事蹟考記』
  2. ^ 『貞山公治家記録』

出典

  • 『迫町史』(宮城県登米郡迫町、1981年)
  • 『南陽市史』上巻(山形県南陽市、1990年)
  • 『伊達政宗記録事蹟考記』
  • 『貞山公治家記録』(三月八日、三月十四日)

登場作品




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