アントン作戦とは? わかりやすく解説

アントン作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 17:41 UTC 版)

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アントン作戦(アントンさくせん、Unternehmen Anton)は、第二次世界大戦中の1942年にドイツとイタリアが実行したヴィシー・フランス占領作戦である。

アントン作戦
戦争第二次世界大戦
年月日1942年11月
場所フランス
結果:ドイツがフランス全土を占領

   フランス艦隊が自沈

交戦勢力
ドイツ国
イタリア王国
フランス国
指導者・指揮官
ヨハネス・ブラスコヴィッツ ピエール・ラヴァル
第二次大戦ヨーロッパ戦線

背景

ドイツによるヴィシー・フランス占領計画は、最初は1940年12月にアッティラ作戦として策定された。それはすぐに、コルシカ島占領作戦であるCamellia作戦とあわせて一つの作戦とされた。アントン作戦は、アッティラ作戦を元にドイツ軍の参加部隊の変更やイタリア軍の参加などの変更を加えたものであった。

1942年11月8日に連合国軍が北アフリカのフランス領に上陸(トーチ作戦)すると、アドルフ・ヒトラーはフランスの地中海側を攻撃の危険に晒すことは出来なかった。フランス首相ピエール・ラヴァルとの最終会談の後、ヒトラーは11月11日コルシカ島を占領し、その翌日にヴィシー・フランスを占領するよう命じた。

経過

1942年11月10日夕刻までに枢軸国軍はアントン作戦の準備を完了した。ドイツ第1軍大西洋沿岸部からスペインとの国境に沿って進軍し、ドイツ第7軍はフランス中部からヴィシートゥーロンへ向け進軍した。これらの部隊はヨハネス・ブラスコヴィッツ将軍の指揮下にあった。イタリア軍は、第4軍がコート・ダジュール占領し、1個師団がコルシカ島に上陸した。11月11日夕刻までにドイツ軍戦車地中海沿岸に達した。

ヴィシー・フランスの抵抗は、独仏休戦協定違反を非難するラジオ放送のみに留まった。最初5万名のヴィシー・フランス軍がトゥーロン周辺で防御体制を取ったが、ドイツに解散を要求されると、抵抗するだけの力はなかった。結局、海外植民地を除くフランス本土全域が、ナチス・ドイツの支配下に置かれることになる。ただし、ピエール・ラヴァル首相をはじめとするフランス政府そのものは残された。

続いて、ドイツ軍はトゥーロンのフランス艦隊奪取を目的としたリラ作戦を実行した。だが、フランスの指揮官達は交渉策略で時間を稼ぎ、11月27日艦隊を自沈させた。





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