枢軸軍の敗退
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「枢軸軍の敗退」の解説
「トーチ作戦」および「チュニジア戦線(英語版)」も参照 スターリングラードでの致命的敗北は枢軸国の敗戦が意識された出来事であったが、その数カ月前に北アフリカ戦線でもエジプト前面に再進出していた独伊軍が激戦の末、第一次エル・アラメインの戦いと第二次エル・アラメインの戦い(英語版)で英軍に敗北したことも追い打ちを掛けた。日本の枢軸国参戦によって連合国陣営にアメリカが加わったことも大きく、トーチ作戦で米軍が欧州戦線に介入してチュニジアのヴィシーフランス軍を降伏に追い込み、チュニジアの米軍とエジプトの英軍に挟撃された独伊軍が窮地に立たされた。枢軸軍の戦線は急速に縮小し、ナチス・ドイツに従属してきたムッソリーニの戦争計画に疑問が持たれ、1942年後半頃から休戦に向けた計画が始まった。 ヒトラーとムッソリーニは示し合わせて南仏への独伊進駐を実施し、イタリア側はコルシカ島やプロヴァンス地方を占領した(アントン作戦)。開戦直後からムッソリーニはヒトラーに南仏沿岸部とチュニジアを戦争に非協力的なヴィシー政府から割譲させ、フランス地中海艦隊の残存艦隊も独伊が接収することを提案していた。提案はヴィシー政権の自発的参戦を期待していたヒトラーに反対されたが、同じ期待を抱いていたスペインと同じくヴィシーフランスも最後まで枢軸国側へ参戦せず、ヒトラーの期待は全く無意味だった。アントン作戦は連合軍が欧州本土に橋頭堡を築くのを阻止したが、もはや地中海戦線は手遅れだった。 他にアフリカへの補給線を確保すべくマルタ島の占領も再三提案していたが、ロンメルに意見されたヒトラーは独伊空軍による爆撃に留め、編成されていたイタリア陸軍の空挺師団は北アフリカに投入された。ムッソリーニは「ヒトラーは地中海の重要性を全く理解していない」と対ソ戦に執着するヒトラーへの不満を口している。体調を崩したロンメルがドイツ本国に帰還したことから作戦指揮は東部戦線から転任したジョヴァンニ・メッセ陸軍大将(後に元帥昇格)と、ロンメルの後任となった独軍のハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将が引き継いだ。メッセとアルニムはマレス・ライン(英語版)やエル・ゲタの戦い(英語版)などで抵抗を見せたが、補給が途絶し制海権も制空権も握られた状態では如何ともし難く、チュニス陥落後の休戦交渉を経て1943年5月に地中海戦線は連合国の勝利で終結した。 国内経済も資源の枯渇と連合軍の戦略爆撃によって壊滅的な打撃を蒙り、殆どの工場が操業停止状態に陥っている。二大工業都市であるミラノとトリノでは空襲の危険から労働者の自主避難も相次いだ。労働運動はコーポラティズムによる労使協調や政府統制から外れて反政府的な姿勢を示し始めた。1943年3月には18年ぶりに大規模なゼネストが全国で展開され、トリノ・ミラノ・ジェノヴァの三角工業地帯では150万名ものストライキ参加者が発生した。農業生産力も低下して深刻な食糧難が発生するなど戦時アウタルキー(自給自足経済)の瓦解を前にして、ヴェネツィア広場でのムッソリーニの参戦演説に大歓声を挙げた国民の間には厭戦感情が広がり、国営放送ではなくヴァチカン市国の放送局(ヴァチカン・ラジオ(英語版))や連合軍の宣伝放送(ロンドン・ラジオ(英語版))を傍受する家庭が増加した。
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