連合軍の戦略とは? わかりやすく解説

連合軍の戦略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 22:34 UTC 版)

マキンの戦い」の記事における「連合軍の戦略」の解説

アリューシャン方面の戦い終了ソロモン方面での戦い好転により、アメリカ海軍1943年終わりには中部太平洋への侵攻が可能となった。そのため、米国統合戦略委員会1943年初めから中部太平洋を西(日本方角)に向かって進撃することを計画していたのだが、南太平洋最高司令官であるダグラス・マッカーサーニューギニアからフィリピンに至るカートホイール作戦実施主張し、この計画反対したためアメリカ陸軍アメリカ海軍で意見分かれたマッカーサーは、ニューギニアからフィリピンという比較大き陸地進攻することによって、陸上飛行基地が全作戦線支援可能となることや、マッカーサーこれまで行ってきた、日本軍強力な陣地素通りして弱い所をたたくという「蛙飛び作戦」によって損害を減らすことができると主張した。それに対し海軍は、陸路進撃することは、海路での進撃比較して長い弱い交通線での進撃補給となって戦力不経済な使用となることや、日本本土侵攻には遠回りとなるうえ、進撃路が容易に予知されるので日本軍兵力集中許してしまうこと、また、進撃路となるニューギニアなどには感染症蔓延しており、兵士危険に晒すことになると反対意見述べた。なおもマッカーサーは、中部太平洋には日本軍要塞化している島がいくつもあって、アメリカ軍多大な出血を強いることになると食い下がったが、海軍は、ニューギニア主戦線とすると空母部隊日本軍陸上基地からの攻撃危険に晒される反論した。この海軍反論には空母マッカーサー指揮下には絶対に置かないという強い意志はたらいていた。 陸海軍双方の主張取り上げてアメリカ統合参謀本部は、カートホイール作戦実施と共に中部太平洋への侵攻決定する。この決定により統合参謀本部1943年7月20日チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官対し11月15日頃にギルバート諸島タラワとアパママ及びナウル攻略し、翌1944年1月頃にマーシャル諸島攻略するように下令した。しかし、ニミッツナウルよりはマキンの方が地形的に作戦が容易と上申し統合参謀本部ニミッツの上申を受け入れて目標ナウルからマキンへと変更したギルバート諸島攻略作戦は「ガルヴァニック作戦」と名付けられタラワマキン同時に攻略する計画であったが、主目標タラワで、第2海兵師団攻略することとなっていた。両島には飛行場整備して今後中部太平洋侵攻作戦支援基地とする計画であったが、1942年8月17日に、221名のアメリカ海兵隊が2隻の潜水艦マキン上陸したマキン奇襲事件によって、日本軍をかえって刺激して両島戦力強化されていることをアメリカ軍認識していた。このマキン奇襲に対しては、「ガルヴァニック作戦」で上陸部隊指揮する第5水陸両用軍団司令官ホーランド・スミス海兵少将が「愚かな作戦」と断じたほどの悪手となった1943年8月21日から8月24日の間には、カナダケベックアメリカ合衆国イギリスカナダフランス四箇国が会談し、この会談により中部太平洋への侵攻作戦具体案決定したニミッツ指揮下の海兵隊中部太平洋進み、まずはギルバート諸島攻略次いで西方転じてクェゼリンエニウェトクグアムサイパンペリリューへと前進しマッカーサービスマルク諸島ニューギニア攻略して、両軍フィリピン台湾一本になると決められた。このような連合国会議では、イギリス首相ウィンストン・チャーチルドイツ降伏するまではヨーロッパ戦線優先すべきと主張するため、太平洋戦線おざなりにされていたが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官兼海作戦部長は「日本軍過小評価している」と食い下がり雄大な二正面作戦太平洋方面連合軍戦力倍増認めさせている。 海軍キング中部太平洋侵攻作戦を、アメリカ海軍アメリカ海兵隊作戦考えていたが、マーシャルは、中部太平洋作戦何としても陸軍部隊参加させたい希望しており、当時ハワイ駐留していた、州兵の第27歩兵師団英語版)をニミッツ差し出したニミッツは第27歩兵師団の中から第165歩兵連隊マキン島投入する決めて海兵隊スミス率いる第5水陸両用軍団指揮下においた。この指揮体制によって第27歩兵師団長のラルフ・スミス(英語版少将海兵隊スミス指揮下に置かれることとなり、それに不快感示したアメリカ陸軍が、第27歩兵師団を第5水陸両用軍団指揮ではなくアメリカ海軍水陸両用総司令官リッチモンド・K・ターナー中将直属とするように申し出したが、ニミッツ陸軍申し出却下した。のちにこの問題が、アメリカ陸軍アメリカ海軍、アメリカ海兵隊の3軍の関係悪化火種となった強固に要塞化されていたタラワとは異なりアメリカ軍事前航空偵察で、マキンには大口径の海岸砲や、水際陣地構築物殆どない認識していた。また、便所の数までを参考指標とした徹底的な調査によって、日本軍兵力せいぜい500人から800程度戦闘要員そのうち一部であるという正確な分析行っていた。作戦先立って司令官ホーランド・スミスハワイにおける第165歩兵連隊の上演習視察し、その訓練ぶりと士気一抹の不安抱いたが、マキン日本軍予想戦力から見て多少問題があっても戦闘楽勝だろうと不安を払拭した。しかし、この不安はのちに的中することとなった

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連合軍の戦略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 04:41 UTC 版)

ミンダナオ島の戦い」の記事における「連合軍の戦略」の解説

フィリピン全土軍事的解放強く希望するマッカーサー大将指示に基づきアメリカ軍中心とした連合国軍部隊は、これらの島々掃討作戦を行うこととなった一連のヴィクター作戦」が立案され、そのうち4号5号ミンダナオ島に関する作戦だった。なおマッカーサー大将心中には、軍功重ねることで日本本土侵攻作戦において司令官地位獲得したいとの願望もあったのではないかと言われる。この掃討作戦には、オランダ領東インド蘭印)と日本との資源航路を完全に断ち切り蘭印への侵攻拠点獲得できる軍事的意義もあった。

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