連合軍の戦略
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アリューシャン方面の戦いの終了、ソロモン方面での戦いの好転により、アメリカ海軍は1943年終わりには中部太平洋への侵攻が可能となった。そのため、米国統合戦略委員会は1943年の初めから中部太平洋を西(日本の方角)に向かって進撃することを計画していたのだが、南太平洋最高司令官であるダグラス・マッカーサーはニューギニアからフィリピンに至るカートホイール作戦の実施を主張し、この計画に反対したため、アメリカ陸軍とアメリカ海軍で意見が分かれた。 マッカーサーは、ニューギニアからフィリピンという比較的大きい陸地を進攻することによって、陸上飛行基地が全作戦線を支援可能となることや、マッカーサーがこれまで行ってきた、日本軍の強力な陣地を素通りして弱い所をたたくという「蛙飛び作戦」によって損害を減らすことができると主張した。それに対し海軍は、陸路を進撃することは、海路での進撃と比較して、長い弱い交通線での進撃や補給となって、戦力の不経済な使用となることや、日本本土侵攻には遠回りとなるうえ、進撃路が容易に予知されるので日本軍に兵力の集中を許してしまうこと、また、進撃路となるニューギニアなどには感染症が蔓延しており、兵士を危険に晒すことになると反対意見を述べた。なおもマッカーサーは、中部太平洋には日本軍が要塞化している島がいくつもあって、アメリカ軍に多大な出血を強いることになると食い下がったが、海軍は、ニューギニアを主戦線とすると空母部隊が日本軍の陸上基地からの攻撃の危険に晒されると反論した。この海軍の反論には空母をマッカーサーの指揮下には絶対に置かないという強い意志もはたらいていた。 陸海軍双方の主張を取り上げてアメリカ統合参謀本部は、カートホイール作戦の実施と共に中部太平洋への侵攻を決定する。この決定により統合参謀本部は1943年7月20日、チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官に対し、11月15日頃にギルバート諸島のタラワとアパママ及びナウルを攻略し、翌1944年の1月頃にマーシャル諸島を攻略するように下令した。しかし、ニミッツはナウルよりはマキンの方が地形的にも作戦が容易と上申し、統合参謀本部もニミッツの上申を受け入れて、目標をナウルからマキンへと変更した。 ギルバート諸島の攻略作戦は「ガルヴァニック作戦」と名付けられ、タラワとマキンを同時に攻略する計画であったが、主目標はタラワで、第2海兵師団が攻略することとなっていた。両島には飛行場を整備して今後の中部太平洋侵攻作戦の支援基地とする計画であったが、1942年8月17日に、221名のアメリカ海兵隊が2隻の潜水艦でマキンに上陸したマキン奇襲事件によって、日本軍をかえって刺激して両島の戦力が強化されていることをアメリカ軍も認識していた。このマキン奇襲に対しては、「ガルヴァニック作戦」で上陸部隊を指揮する第5水陸両用軍団司令官ホーランド・スミス海兵少将が「愚かな作戦」と断じたほどの悪手となった。 1943年8月21日から8月24日の間には、カナダのケベックでアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、フランスの四箇国が会談し、この会談により中部太平洋への侵攻作戦の具体案が決定した。ニミッツ指揮下の海兵隊が中部太平洋を進み、まずはギルバート諸島を攻略、次いで西方に転じて、クェゼリン、エニウェトク、グアム、サイパン、ペリリューへと前進し、マッカーサーはビスマルク諸島とニューギニアを攻略して、両軍はフィリピンか台湾で一本になると決められた。このような連合国の会議では、イギリス首相のウィンストン・チャーチルがドイツが降伏するまではヨーロッパ戦線を優先すべきと主張するため、太平洋戦線はおざなりにされていたが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長とアーネスト・キング合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長は「日本軍を過小評価している」と食い下がり、雄大な二正面作戦と太平洋方面の連合軍戦力倍増を認めさせている。 海軍のキングは中部太平洋侵攻作戦を、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊の作戦と考えていたが、マーシャルは、中部太平洋の作戦に何としても陸軍部隊を参加させたいと希望しており、当時、ハワイに駐留していた、州兵の第27歩兵師団(英語版)をニミッツに差し出した。ニミッツは第27歩兵師団の中から第165歩兵連隊をマキン島に投入すると決めて、海兵隊のスミスが率いる第5水陸両用軍団の指揮下においた。この指揮体制によって第27歩兵師団長のラルフ・スミス(英語版)少将が海兵隊スミスの指揮下に置かれることとなり、それに不快感を示したアメリカ陸軍が、第27歩兵師団を第5水陸両用軍団の指揮下ではなく、アメリカ海軍の水陸両用軍総司令官リッチモンド・K・ターナー中将の直属とするように申し出したが、ニミッツは陸軍の申し出を却下した。のちにこの問題が、アメリカ陸軍、アメリカ海軍、アメリカ海兵隊の3軍の関係悪化の火種となった。 強固に要塞化されていたタラワとは異なり、アメリカ軍は事前の航空偵察で、マキンには大口径の海岸砲や、水際の陣地構築物が殆どないと認識していた。また、便所の数までを参考指標とした徹底的な調査によって、日本軍の兵力はせいぜい500人から800人程度で戦闘要員はそのうちの一部であるという正確な分析を行っていた。作戦に先立って、司令官のホーランド・スミスはハワイにおける第165歩兵連隊の上陸演習を視察し、その訓練ぶりと士気に一抹の不安を抱いたが、マキンの日本軍の予想戦力から見て、多少の問題があっても戦闘は楽勝だろうと不安を払拭した。しかし、この不安はのちに的中することとなった。
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連合軍の戦略
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フィリピン全土の軍事的解放を強く希望するマッカーサー大将の指示に基づき、アメリカ軍を中心とした連合国軍部隊は、これらの島々の掃討作戦を行うこととなった。一連の「ヴィクター作戦」が立案され、そのうちの4号と5号がミンダナオ島に関する作戦だった。なおマッカーサー大将の心中には、軍功を重ねることで日本本土侵攻作戦において司令官の地位を獲得したいとの願望もあったのではないかと言われる。この掃討作戦には、オランダ領東インド(蘭印)と日本との資源航路を完全に断ち切り、蘭印への侵攻拠点を獲得できる軍事的意義もあった。
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