連合軍の戦略におけるベルギー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:58 UTC 版)
「ベルギーの戦い」の記事における「連合軍の戦略におけるベルギー」の解説
1936年10月に行われたベルギー国王、レオポルド3世の中立宣言に対し、フランスは不快感を表明していた。フランス軍はドイツ軍(ドイツ国防軍)の攻撃に対する作戦が害されていることに気づいており、これによりフランス東国境を防衛する際にベルギー軍が当てにならないこと、ドイツ軍がフランス国境に集中することを意味していた。しかし、フランスの作戦はベルギーから協力を得ることを前提に作成されていた。さらに、これらの状況はベルギーにおける防衛を行うために用意されたフランス軍部隊がドイツ軍の装甲部隊による機動戦を失速させることができなくなることを意味していた。このため、フランスはドイツの攻撃如何ではベルギーを攻撃することも考えていた。その上で、ベルギーはドイツの危険性を認めており、ひそかにベルギーの防衛政策、部隊展開、通信、防御配置、情報、航空偵察情報をブリュッセルのフランス駐在武官に提供していた。 連合軍によるベルギー支援はデイル計画により計画されていた。この作戦によれば、連合軍の機甲師団を含む最良の部隊はドイツ軍の侵入に応じて、デイル川へ進撃することになり、その後、連合軍はベルギー東部のマース - アルベール運河を防衛線としてスヘルデ川河口を保持してベルギー軍を補強するようにし、フランス防衛線南部とヘント、アントワープを結びつけることにより、最良の防衛を行える形にしていた。しかし、この計画ではベルギー東部をドイツ軍の占領下にしてしまうという政治的な弱点があった。それに平行して軍事的には、フランス防衛線背後にイギリス軍が本国と繋がるためにビスケー湾の港湾施設を防衛することになっていた。また、ベルギー中部へ部隊を向かわせスヘルデ線、およびデイル線(側面に弱点が存在していた)への前進の危険性が存在するにもかかわらず、モーリス・ガムランは計画に賛成しており、それはそのまま第二次世界大戦勃発時の連合軍の戦略として採用されていた。 イギリスは当時、フランスに部隊を置いておらず、さらに再軍備中であったため、フランスの戦略に意見をする立場になく、さらに西側連合軍の中でフランスが優位を保っていた。フランスに対する反対意見はなく、イギリスにおける軍事的戦略はルール地方への戦略爆撃という形で現されていた。
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