枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏の意味・解説 

枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:45 UTC 版)

クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏」の解説

1941年攻防戦通じてクリミアドイツ軍補給難で苦しんでいたのに比べてソ連黒海艦隊による海上補給大きな妨害受けておらず、ソ連軍補給面では優位にあった。この問題は、ドイツ側でも認識されていて、ソ連軍海上補給路を断つための努力なされることになった黒海沿岸唯一の枢軸国であるルーマニア海軍は、小規模な沿岸海軍ソ連黒海艦隊には対抗できなかった。黒海に、ボスポラス海峡ダーダネルス海峡通って独伊の海軍艦艇入れることは、トルコ中立ある限り出来なかった。 1942年1月に、KG100第1飛行隊クリミア派遣され部隊艦船攻撃始めた2月には、34機のHe111を装備するKG26第2飛行隊サキ飛行場展開したが、その半数以上は雷装可能だったイタリア海軍は、フランチェスコ・ミンベッリ大尉指揮官とする海軍航空隊、4隻のMASと6隻の豆潜水艦からなる部隊黒海に送ることにし、4月にはこれらの部隊は、フェオドシアとヤルタ基地をもうけ作戦行動可能になった。ドイツ海軍Sボートの1個分隊を送ることにしたが、大型Sボートそのままでの陸上輸送出来ず分解してドナウ河つかってガラツィまで運び組み立てる必要があった。2隻のSボート6月作戦行動可能となった。更に、4月には、同じ様に6隻のIIB型Uボート分解してガラツィまで運んで組み立て作業始めた。しかし、最初のU-9が作戦行動可能になったのは、セバストポリ陥落後の1942年10月であったセヴァストポリへの補給は、ノヴォロシースクら行われていて、オクチャーブリスキーは、この任務に、軽巡モロトフ軽巡クラースヌィイ・クルィーム,駆逐艦6,掃海艇8,貨物船/客船3,タンカー1を充てていた。海軍艦艇は、いずれも30ノット超の高速航行可能だったが、貨物船客船タンカー12ノット上の航行出来なかった。通常の運航スケジュールは、日没直後セヴァストポリ入港し夜間荷揚げ帰路用の負傷兵退避する市民積み作業終了次第出港し日の出前セヴァストポリより可能な限り遠くまで航行するというものであったソ連軍戦闘機航続距離問題があり、航路半分以上は空のカバーはなかった。5月までは比較軽度損害船団航行行われていたが、6月になってVIII航空軍団により封鎖本格化すると損害増大した6月2日タンカーMikhail Gromovは、セヴァストポリへの航行中、He111の魚雷攻撃受けてヤルタ沖で撃沈された。6月10日貨物船アブハジア駆逐艦Svobodniyは、アブハジア揚陸作業夜明け前に終わらなかった為、セヴァストポリ港内ドイツ空軍攻撃受けて沈没した6月13日弾薬兵員満載した貨物船グルジア掃海艇警備艇護衛のもとセヴァストポリ向かったが、ドイツ空軍機の直撃弾が誘爆起こし3500と共に一瞬轟沈した。6月19日貨客船Belostokは掃海艇1隻と共に帰路航行中だったが、0148時頃にバラクラヴァ沖合ドイツ海軍SボートS-102雷撃受けて388と共に没した。Belostokの損失後、オクチャーブリスキーは、船足の遅い貨客船での補給停止することにした。6月26日朝、駆逐艦Bezuprechnyと嚮導駆逐艦タシュケントそれぞれ五月雨式に、増援部隊満載してセヴァストポリ向かったが、Bezuprechnyは、1857時にJu87直撃弾を浴びて沈没した。Bezuprechnyの生存者多数海上漂っているなか、タシュケント海域到着したが、ドイツ空軍機が多数跳梁するなかで救助活動を行うことは出来なかった。タシュケントは、イタリア海軍MAS攻撃回避してセヴァストポリに無事到着した。Bezuprechnyの陸兵乗員572人のうち、助かったのはわずか3人だけだった翌日帰路航行中タシュケントは、0415時にドイツ空軍機に発見され、約2時間後、He111とJu87大群襲撃受けた3時間近い空襲結果Ju87の250kg爆弾直撃受けたが、洋上での応急修理により艦は14ノット航行可能になり、ノヴォロシースク戦闘機行動圏までなんとか逃げ込むことが出来たセヴァストポリ上空戦いは、ドイツVIII航空軍団が制圧する決定的段階達しスタフカは、6月25日残存する空軍機にコーカサス退避するよう指令したこれに伴い海軍艦艇による補給も、6月28日に2隻の掃海艇330名の増援運び帰路300名の負傷者引き上げたのが最後になった。6月の間、黒海艦隊は17600人の増援セヴァストポリ運んだが、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、貨物船タンカー5隻を失いその他の艦艇多く損傷受けた

※この「枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏」の解説は、「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の解説の一部です。
「枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏」を含む「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事については、「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏」の関連用語

1
8% |||||

枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのクリミアの戦い (1941年-1942年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS