枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏
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「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「枢軸軍によるセヴァストポリの海上封鎖 - 1942年春・夏」の解説
1941年の攻防戦を通じて、クリミアのドイツ軍が補給難で苦しんでいたのに比べて、ソ連黒海艦隊による海上補給は大きな妨害を受けておらず、ソ連軍は補給面では優位にあった。この問題は、ドイツ側でも認識されていて、ソ連軍の海上補給路を断つための努力がなされることになった。黒海沿岸唯一の枢軸国であるルーマニアの海軍は、小規模な沿岸海軍でソ連黒海艦隊には対抗できなかった。黒海に、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通って独伊の海軍艦艇を入れることは、トルコが中立である限り出来なかった。 1942年1月に、KG100第1飛行隊がクリミアに派遣され、部隊は艦船攻撃も始めた。2月には、34機のHe111を装備するKG26第2飛行隊がサキ飛行場に展開したが、その半数以上は雷装可能だった。 イタリア海軍は、フランチェスコ・ミンベッリ大尉を指揮官とする海軍航空隊、4隻のMASと6隻の豆潜水艦からなる部隊を黒海に送ることにし、4月にはこれらの部隊は、フェオドシアとヤルタに基地をもうけ作戦行動可能になった。ドイツ海軍もSボートの1個分隊を送ることにしたが、大型のSボートはそのままでの陸上輸送は出来ず、分解してドナウ河をつかってガラツィまで運び、組み立てる必要があった。2隻のSボートは6月に作戦行動可能となった。更に、4月には、同じ様に6隻のIIB型Uボートを分解してガラツィまで運んで、組み立てる作業を始めた。しかし、最初のU-9が作戦行動可能になったのは、セバストポリ陥落後の1942年10月であった。 セヴァストポリへの補給は、ノヴォロシースクから行われていて、オクチャーブリスキーは、この任務に、軽巡モロトフ、軽巡クラースヌィイ・クルィーム,駆逐艦6,掃海艇8,貨物船/客船3,タンカー1を充てていた。海軍艦艇は、いずれも30ノット超の高速航行が可能だったが、貨物船・客船とタンカーは12ノット以上の航行は出来なかった。通常の運航スケジュールは、日没直後にセヴァストポリに入港し、夜間に荷揚げと帰路用の負傷兵と退避する市民を積み、作業終了次第出港し、日の出前にセヴァストポリより可能な限り遠くまで航行するというものであった。ソ連軍戦闘機は航続距離の問題があり、航路の半分以上は空のカバーはなかった。5月までは比較的軽度の損害で船団航行は行われていたが、6月になってVIII航空軍団により封鎖が本格化すると損害は増大した。 6月2日、タンカーMikhail Gromovは、セヴァストポリへの航行中、He111の魚雷攻撃を受けてヤルタ沖で撃沈された。6月10日、貨物船アブハジアと駆逐艦Svobodniyは、アブハジアの揚陸作業が夜明け前に終わらなかった為、セヴァストポリ港内でドイツ空軍の攻撃を受けて沈没した。6月13日、弾薬と兵員を満載した貨物船グルジアは掃海艇と警備艇の護衛のもとセヴァストポリへ向かったが、ドイツ空軍機の直撃弾が誘爆を起こし約3500名と共に一瞬で轟沈した。6月19日、貨客船Belostokは掃海艇1隻と共に帰路を航行中だったが、0148時頃にバラクラヴァの沖合でドイツ海軍SボートS-102の雷撃を受けて、388名と共に海没した。Belostokの損失後、オクチャーブリスキーは、船足の遅い貨客船での補給は停止することにした。6月26日朝、駆逐艦Bezuprechnyと嚮導駆逐艦タシュケントはそれぞれ五月雨式に、増援部隊を満載してセヴァストポリへ向かったが、Bezuprechnyは、1857時にJu87の直撃弾を浴びて沈没した。Bezuprechnyの生存者が多数海上を漂っているなか、タシュケントが海域に到着したが、ドイツ空軍機が多数跳梁するなかで救助活動を行うことは出来なかった。タシュケントは、イタリア海軍MASの攻撃も回避してセヴァストポリに無事到着した。Bezuprechnyの陸兵・乗員572人のうち、助かったのはわずか3人だけだった。翌日、帰路を航行中のタシュケントは、0415時にドイツ空軍機に発見され、約2時間後、He111とJu87の大群の襲撃を受けた。3時間近い空襲の結果、Ju87の250kg爆弾の直撃を受けたが、洋上での応急修理により艦は14ノットで航行可能になり、ノヴォロシースクの戦闘機の行動圏までなんとか逃げ込むことが出来た。 セヴァストポリ上空の戦いは、ドイツVIII航空軍団が制圧する決定的段階に達し、スタフカは、6月25日に残存する空軍機にコーカサスへ退避するよう指令した。これに伴い、海軍艦艇による補給も、6月28日に2隻の掃海艇で330名の増援を運び、帰路に300名の負傷者を引き上げたのが最後になった。6月の間、黒海艦隊は17600人の増援をセヴァストポリに運んだが、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、貨物船・タンカー5隻を失い、その他の艦艇も多くは損傷を受けた。
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