枢軸国軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:04 UTC 版)
ここでロンメルのとった方針は、 トブルクを目標に作戦中の敵主力を、ドイツ=イタリア機動部隊を総動員し集中してたたき、しかるのち急速に東進してソルーム戦線から敵を一掃すること。 — カレル (1998)、pp.104-105. だった。 この攻勢は、11月23日に開始されたのだが、このときにロンメルは司令部から遠く離れていて、クリューヴェルへの命令は6ページにも及ぶ長文の暗号で伝えられた。解読に時間を要するとみたクリューベルはおよその状況を把握していたので、暗号の解読を待たずに、早朝第15装甲師団へ向かった。この直後に、ドイツアフリカ軍団司令部のあったガムブート (Gambut) がニュージーランド第2師団の攻撃を受け、ドイツ第15装甲師団へ向かおうとしていた司令官のクリューヴェルはわずかな差でこれを逃れていた。 23日朝、枢軸国軍はトブルク南方地域で戦闘準備を整え、シディ・レゼグ地区にはドイツ第21装甲師団、ビル・エル・グビ地区にはイタリア第101アリエテ自動車化歩兵師団及び第132トリエステ戦車師団が集結した。クリューベルの意図は、ドイツ第15装甲師団を南西に移動させ、これにビル・エル・グビから移動させるアリエテ師団を合流させて、機甲部隊を集中してイギリス軍を背後から攻撃するというものであった。 南西方向に移動中だったドイツ第15装甲師団は、シディ・ムファ付近でイギリス軍の戦車部隊を発見し、これと交戦を開始した。ドイツ第21装甲師団はシディ・レゼグへ向かっていたイギリス第7機甲師団に接触し激戦となった。昼にはこれに呼応してトブルク守備隊が戦車60輌と歩兵部隊で包囲を脱出しようとしたが、包囲軍のイタリア第17パヴィア歩兵師団の対応により封鎖線を突破することができなかった。午後の早い時間帯にドイツ軍はイギリス軍の背後にまわり、これにアリエテ師団の戦車120輌も合流し、第5戦車連隊(ドイツ第5装甲師団)が右翼、第8戦車連隊(ドイツ第21装甲師団)が中央、イタリア軍が左翼という布陣で背後からイギリス軍に攻撃する態勢となった。けれども、南アフリカ第1師団砲兵部隊のすばやい展開による砲撃のため、枢軸国軍の攻撃は停滞したが、これに対抗して砲兵部隊を動員し、午後の遅くにようやくイギリス軍を包囲する形勢となった戦車部隊の再度の攻撃が始められた。シディ・レゼグ南方の砂漠地域は戦場となり、砂塵と硝煙により視界が悪化したので、イギリス軍の戦車と砲兵部隊の一部はこれにまぎれ南と東方向に包囲を脱することができた。 戦闘の詳細が判明してきたのは深夜を過ぎてからで、枢軸国軍はこの状況を検討し、トブルク包囲陣に対する危機的状況は去り、イギリス軍戦車兵力に多大な損害を与え、イギリス軍の士気をくじいたものと判定した。
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