枢軸国軍のトブルクからの撤退とは? わかりやすく解説

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枢軸国軍のトブルクからの撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:04 UTC 版)

クルセーダー作戦」の記事における「枢軸国軍のトブルクからの撤退」の解説

ロンメル12月4日トブルク東側包囲部隊引き上げて、第15、第21装甲師団をエル・ドゥダ、シディ・レゼグ間から西へ向かわせ、これにイタリア軍合わせビル・エル・グビ付近イギリス軍攻撃することとした。けれどもイタリア青年ファシスト師団だけが合流し5日イギリス第7機甲師団対し攻撃開始された。これにより手薄になった枢軸国軍包囲衝く形で、トブルク守備当たっていたイギリス70歩兵師団攻撃開始し、エル・ドゥダ、ベルハメド (Belhamed) 間の要地占領した6日、再びドイツ15、第21装甲師団はビル・エル・グビのイギリス軍に対して攻撃行い包囲寸前までいったものの要請していたイタリア軍はついに合流せず、翌7日には形勢逆転包囲される形勢となり、第15装甲師団ノイマン=ジルコウ (Walter Neumann-Silkow) も負傷した3日後に戦死した。)。 12月10日に、オーキンレックはチャーチル対し次のように報告している。 敵は西へ退却模様であります。……トブルク包囲解除されといって差支えないと思われます。われわれは空軍完璧な協力をしつつ、激しく追撃しております。 — チャーチル (2001)、p.52 ロンメルは、いったんはエル・アデム (El Adem) で防御陣地を築くこととしたが、枢軸国軍損耗著しかったためイギリス軍の攻勢抗しきれず、数日でここの防衛拠点から撤退せざるを得なかった。 12月15日ロンメル国防軍総司令部対し、ガザラ地区12月16日まで守り夜にメキリ(Mechili)、デルナ (Derna) 経由撤退する報告した16日ローマからカヴァッレーロ元帥来てキレナイカ地方放棄対し対抗示したが、ロンメルは「戦いつつ有利な防衛陣まで交替する」を変えなかった。 枢軸国軍がアジェダビア (Ajedabia) まで後退した12月27-29日の防衛戦では、イギリス軍戦車部隊潰滅させるほどの損害与えたロンメル1月3日にアジェダビアの放棄決め、エル・アゲイラ (El Agheila) まで後退しその東側防衛線を築いた。こうして再びキレナイカ地方イギリス軍の手落ちた。 また兵站線障害となっていた、エジプト国境のソルームは1月12日に、ハルファヤ峠の守備隊1月17日にようやくイギリス軍投降した

※この「枢軸国軍のトブルクからの撤退」の解説は、「クルセーダー作戦」の解説の一部です。
「枢軸国軍のトブルクからの撤退」を含む「クルセーダー作戦」の記事については、「クルセーダー作戦」の概要を参照ください。

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