イギリス軍の攻勢
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「クルセーダー作戦」の記事における「イギリス軍の攻勢」の解説
ロンメルが前線指揮で不在の間、立ち直ったニュージーランド第2師団は第1陸軍戦車旅団の支援を受けシディ・レゼグへの攻撃を始め、同時にトブルク守備隊も枢軸国軍を攻撃した。このため枢軸国軍のトブルク包囲陣は寸断される事態となった。そこで作戦主任参謀ヴェストファール中佐は独断でドイツ第21装甲師団へ攻撃を中止、撤収し、トブルク包囲への帰還を命令した。このときに、ドイツ軍はイギリス軍の大兵站基地近くを通過したが、これに気付かなかった。もし、そこに集積されていた物資をドイツ軍が入手できたならば、イギリス軍は窮地に追い込まれることとなっていた。 ロンメルはヴェストファール中佐の命令を知り激怒したが、司令部に戻って再検討した結果、この判断は正しいと判断して攻勢中止を承認した。いったんエジプト国境に進んだドイツ軍はすべてトブルク包囲陣へ集められ、ハルファヤ峠付近の枢軸国軍部隊は孤立することとなった。クリューヴェルは11月28日にはドイツ軍の第15、第21の両装甲師団を掌握し、トブルク南東部の状況打開のため、29日にシディ・レゼグ付近のイギリス軍を攻撃することとした。 国境付近からニュージーランド第2師団は攻撃を開始し、29日にドイツ第15装甲師団にイギリス軍に対する攻撃命令を伝達に向かったドイツ第21装甲師団長フォン・ラーフェンシュタインを捕えた。しかし、175高地においてニュージーランド第2師団はアリエテ戦車師団による攻撃を受け、多数が捕虜となった。また同時に第7機甲師団はビル・エル・レゲム南方からトブルクへ向け移動を開始していた。 オーキンレックは第7機甲師団を含む新たに整備した部隊を集め、ビル・エル・グビ付近に戦力を集中し、再びトブルクを包囲している枢軸国軍に対し攻撃を開始した。
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イギリス軍の攻勢
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「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「イギリス軍の攻勢」の解説
6月7日にイギリス軍の攻勢がイーペルの南方のメシヌにおいて開始された(メシヌの戦い(英語版))。1914年の第一次イーペル会戦において占領されていたこの地を奪還するために、1915年から工兵がトンネルを掘り進めており、ドイツ軍陣地の直下に455トンもの爆発物が設置された。4日間の砲撃の後にこの爆発物が点火され、1万人ものドイツ兵が死亡した。さらに攻撃が続けられたが、陣地の奪取には失敗した。折からの雨によって地面は泥にまみれており、双方の兵士に手ひどい消耗が生じた。 1917年7月11日、ドイツ軍は新兵器としてガス弾を使用した。これまでに使用されていた塩素ガスは砲弾につめることができるほどの量では効果が薄かったが、ドイツではマスタードガスを開発し、これを砲弾に積載した。マスタードガスは糜爛性を有しており使用後数日間は地表近くに堆積したため、兵士のモラール(士気)に影響を与えた。連合国もドイツに続いてマスタードガスやホスゲンガスなどの毒ガスの使用を行った。 6月25日にアメリカ合衆国から初めての兵士が到着し、アメリカ合衆国遠征軍が組織された。しかし米軍が塹壕に向かうのは10月の第1歩兵師団まで待たなければならなかった。訓練を受けておらず、装備も貧弱であった米軍は当初は副次的な任務に従事している。しかしアメリカの参戦によって英仏軍の士気は劇的に向上している。 さらにイギリスの同盟国である日本が、巡洋艦「明石」および樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を派遣、後に桃型駆逐艦などを増派し合計18隻を派遣し、インド洋と地中海でイギリスやフランスなどが持つ世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行った。特に、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献したものの、多くの犠牲者も出した。 10月にイーペル付近で行われた戦闘はパッシェンデールの戦いとして知られている。カナダ部隊および、長年の戦闘で消耗していたアンザック部隊は10月30日にパッシェンデールの村を占領した。激しい雨によって土地は泥まみれとなっており、この戦闘は後に泥の戦いとして記憶されることになる。これまで何度も見られたように、攻撃側は防御側に比べて極めて多い損害が生じた。軟弱な地盤と砲弾穴によって補給はほぼ不可能であり、両者あわせて50万人もの兵士が死亡している。
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