イギリス軍の攻勢とは? わかりやすく解説

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イギリス軍の攻勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:04 UTC 版)

クルセーダー作戦」の記事における「イギリス軍の攻勢」の解説

ロンメル前線指揮不在の間、立ち直ったニュージーランド第2師団は第1陸軍戦車旅団支援を受けシディ・レゼグへの攻撃始め同時にトブルク守備隊枢軸国軍攻撃したこのため枢軸国軍トブルク包囲陣は寸断される事態となった。そこで作戦主任参謀ヴェストファール中佐独断ドイツ21装甲師団攻撃中止撤収しトブルク包囲への帰還命令した。このときに、ドイツ軍イギリス軍大兵基地近く通過したが、これに気付かなかった。もし、そこに集積されていた物資ドイツ軍入手できたならば、イギリス軍窮地追い込まれることとなっていた。 ロンメルはヴェストファール中佐命令知り激怒したが、司令部戻って再検討し結果、この判断正しいと判断して攻勢中止承認した。いったんエジプト国境進んだドイツ軍はすべてトブルク包囲陣へ集められ、ハルファヤ峠付近枢軸国軍部隊孤立することとなった。クリューヴェルは11月28日にはドイツ軍の第15、第21の両装甲師団掌握しトブルク南東部状況打開のため、29日にシディ・レゼグ付近イギリス軍攻撃することとした。 国境付近からニュージーランド第2師団攻撃開始し29日ドイツ15装甲師団イギリス軍対す攻撃命令伝達向かったドイツ21装甲師団長フォン・ラーフェンシュタインを捕えた。しかし、175高地においてニュージーランド第2師団アリエテ戦車師団による攻撃を受け、多数捕虜となった。また同時に第7機甲師団はビル・エル・レゲム南方からトブルクへ向け移動開始していた。 オーキンレックは第7機甲師団を含む新たに整備した部隊集め、ビル・エル・グビ付近に戦力集中し、再びトブルク包囲している枢軸国軍対し攻撃開始した

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イギリス軍の攻勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:37 UTC 版)

西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「イギリス軍の攻勢」の解説

6月7日にイギリス軍の攻勢がイーペル南方のメシヌにおいて開始された(メシヌの戦い英語版))。1914年第一次イーペル会戦において占領されていたこの地を奪還するために、1915年から工兵トンネル掘り進めており、ドイツ軍陣地直下455トンもの爆発物設置された。4日間の砲撃の後にこの爆発物点火され1万人ものドイツ兵が死亡した。さらに攻撃続けられたが、陣地奪取には失敗した折からによって地面泥にまみれており、双方兵士手ひどい消耗生じた1917年7月11日ドイツ軍新兵器としてガス弾使用したこれまで使用されていた塩素ガス砲弾につめることができるほどの量では効果薄かったが、ドイツではマスタードガス開発し、これを砲弾積載したマスタードガス糜爛性有しており使用後数日間地表近く堆積したため、兵士モラール士気)に影響与えた連合国ドイツ続いてマスタードガスやホスゲンガスなどの毒ガス使用行った6月25日アメリカ合衆国から初めての兵士到着しアメリカ合衆国遠征軍組織された。しかし米軍塹壕に向かうのは10月第1歩師団まで待たなければならなかった。訓練受けておらず、装備貧弱であった米軍当初副次的な任務従事している。しかしアメリカ参戦によって英仏軍の士気劇的に向上している。 さらにイギリス同盟国ある日本が、巡洋艦明石」および樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊派遣、後に桃型駆逐艦などを増派合計18隻を派遣しインド洋地中海でイギリスフランスなどが持つ世界各地植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団連合国側商船787隻、計350回の護衛救助活動行った。特に、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユ艦船により兵員輸送する「大輸送作戦」の護衛任務成功させ、連合国側西部戦線での劣勢覆すことに大きく貢献したものの、多く犠牲者出した10月イーペル付近行われた戦闘パッシェンデールの戦いとして知られている。カナダ部隊および、長年戦闘消耗していたアンザック部隊10月30日パッシェンデール占領した激しい雨によって土地泥まみれとなっており、この戦闘は後に泥の戦いとして記憶されることになる。これまで何度も見られたように攻撃側防御側に比べて極めて多い損害生じた軟弱な地盤砲弾穴によって補給はほぼ不可能であり、両者あわせて50万人もの兵士死亡している。

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