イギリス軍の指揮の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:52 UTC 版)
「タイコンデロガの攻略」の記事における「イギリス軍の指揮の混乱」の解説
当時、タイコンデロガ砦は軍事上重要な砦ではなかったが、ここを攻略したことでいくつかの大きな結果が得られた。この地域での、反逆者への監視が、ケベック、ボストン、後にニューヨークのそれぞれのイギリス軍の、陸路での連絡や補給が困難になる原因を作り、イギリス軍は、指揮の構造を調整する必要に迫られた。 この変化は、アーノルドがサンジャンへ向かう途中、カールトンからゲージへの、ケベックの駐屯部隊を強化する旨の手紙を奪ったことにおいて明らかである。 北アメリカのイギリス軍の指揮系統は、かつて、シングル・コマンダー(コマンダー・イン・チーフ)だったのが2つに分けられ、カールトン総督が、ケベックや北方の部隊で命令を出しており、一方、イギリス軍の将軍ウィリアム・ハウは大西洋岸に展開する軍の指揮を執っていた。この方法は、フレンチ・インディアン戦争時のウルフ、アマースト両将軍の時にはうまく機能したが、独立戦争では、2つの軍の協力体制は、問題含みとなり、1777年のサラトガの戦いで、ハウが、明らかに、協定によって決められた北部の戦略を放棄して、南部の支持がなかったバーゴインを置き去りにしたような、そういう失敗もあったのである。
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