カーンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:55 UTC 版)
1944年6月6日、西側連合軍がノルマンディー上陸侵攻作戦を発動すると、装甲教導師団は戦略的予備装甲戦力(西方装甲集団)の一環として、重大であった最初の数日間に戦闘から留め置かれた。その後に送り出されて前線に到着し、6月8日にイギリス軍・カナダ軍との戦闘に従事した。第12SS装甲師団ヒトラーユーゲントに隣接した前線に位置し、カーンを防衛して数度のイギリス軍の攻勢と戦い、膠着状態へと持ち込んだ。 1944年6月13日、イギリス軍第7機甲師団(英語版)配下の第22機甲旅団(英語版)の攻撃が、ティイ・シュル・ソル(英語版)近傍で装甲教導師団による防衛の側面を回り込み、ヴィレル・ボカージュ(英語版)の村落を奪取し装甲教導師団の背後を脅かして、ドイツ軍戦線を分断した。装甲教導師団、第2装甲師団、SS第101重戦車大隊の一部が、イギリス軍の突破を覆すべく参画した。続くヴィレル・ボカージュの戦いで、2日間の決着がつかない戦闘の後に、イギリス軍は出立地点まで退いた。6月17日には、装甲教導師団は後退を余儀なくされていた。 ノルマンディーで戦った全てのドイツ軍装甲部隊と同様に、装甲教導師団は移動中の連合軍からの航空攻撃で大きな損失を蒙った。6月末には、当師団の装甲部門は甚だしく損耗していた。にも関わらず、ティイ・シュル・ソルの街近くでの激しい戦闘に従事し、イギリス軍やイギリス連邦各軍に対して持ちこたえ続けた。 6月末には装甲教導師団は2,972名の死傷者を出しており、また51輌の戦車・突撃砲、82輌のハーフトラック、294輌のその他車両の損失を報告した。
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