戦闘の詳細
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 08:26 UTC 版)
軍事的・外交的に周到な準備をほどこしたジョチ・ウルスの武将ママイは、モスクワ大公ドミートリーに使者を送り、ママイ政権の従臣になること、また、ウズベク・ハンの時代にウラジミール大公がジョチ・ウルスに納めていたのと同等の貢税の実施を求めた。これは、実質的にママイの対ドミートリー最後通牒に等しかった。ドミートリーはこの要求をすぐに拒否はせず、しかし、ママイ軍の接近の報せを聞くと、戦端を開くことを決心して諸公に軍勢の動員を促した。ルーシ諸公の軍は1380年8月15日を期日として、モスクワ川とオカ川が合流するコロムナ(現ロシア連邦・モスクワ州)に集結することを約していた。 モスクワ大公国側は、ママイ軍、リトアニア大公ヤガイロの軍、リャザン公オレークの軍が集結するとみられるオカ川を越え、さらに南方に進出してママイ軍を迎撃する計画を立てた。ドミートリー率いるルーシ連合軍は9月8日にドン川を渡り、その支流ネプリャドヴァ川の右岸、クリコヴォ平原に陣を布いた。クリコヴォ平原は、リャザンの領域にあり、その背後をドン川とネプリャドヴァ川が流れ、これはまさに背水の陣であった。この布陣は、ドミートリーの不退転の決意をあらわすとともに、戦術としては、タタールの騎兵が迂回してルーシ軍の背後や側面から奇襲をかけることを難しくしていた。 ルーシ連合軍は、騎兵からなる前哨部隊と歩兵からなる先遣部隊が前衛を構成し、その後方に右翼部隊、主力部隊、左翼部隊が配備された。なお、この三部隊は、両翼の騎兵が中央の歩兵を取り囲むかたちに配された。さらに、その後詰めとして予備部隊と騎兵からなる伏兵部隊が配置された。一方のママイ軍は、軽騎兵からなる先遣部隊、ジェノヴァ傭兵を含む歩兵中心の中央部隊、そして騎兵からなる右翼部隊と左翼部隊が並ぶという布陣を採用した。 戦闘に先立って、当時の慣行で両軍から勇士が選抜され、一騎討ちをおこなった。ロシア側は至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士アレクサンドル・ペレスヴェート、ママイ側はタタールの武将チェルベイであった。双方相打ちで倒れ、戦端がひらかれた。 9月8日朝にはじまるクリコヴォの戦いは初め、ルーシ連合軍の前哨部隊・先遣部隊とママイ軍の先遣部隊が衝突し、ルーシ連合軍が敗北して後退した。次に、ママイ有利の状況で両軍の主力が遭遇した。ママイ軍右翼の騎兵がルーシ連合軍左翼を強襲し、さらにルーシ軍の中央主力部隊を包囲する勢いであったが、その戦端が伸びきったところで、今度はルーシ連合軍で温存されていた伏兵部隊が投入され、伏兵部隊と中央主力部隊によってママイ軍右翼が挟撃される形勢となった。これにより、ママイ軍右翼の騎兵隊は混乱に陥って後退をはじめ、さらに、自軍の右翼後退を知ったママイ全軍が混乱して逃亡を開始し、これをルーシ連合軍が追撃して、ついにモスクワは勝利を収めた。終日におよぶ大激戦であり、この戦闘でのロシア側の損失もきわめて大きかった。おびただしい死者を葬送するため、ドミートリー・ドンスコイはクリコヴォに8日間逗留したといわれる。 しかしながら、モスクワとその連合軍にとってこの戦いが総力を挙げた決戦であったのに対し、ママイ軍にとっては他にさまざまな戦いをかかえているうちの一戦闘にすぎなかった。ママイ側はいまだ予備兵力を十分に確保していたのである。事実、ママイは第2次ロシア遠征を計画していたが、これが実行に移されなかったのは、ママイが同じモンゴル人のトクタムィシ(トクタミシュ)との抗争に敗れたためであった。そして、上述のようにトクタムィシは、1382年のモスクワ遠征に勝利を収めたのである。
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