戦闘の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:39 UTC 版)
モーガン隊はイギリス兵王党派兵合わせて652名を捕虜にした。完勝であった。イギリス軍の死者の数は、勝った大陸軍の申告でも100であったり110であったり、また120であったりする。しかし、古代から近代までどのような戦争でも戦死した敵の死体の数は誇張されるものである。勘定できるのはタールトンの部隊が戦闘部隊としては消え去ったことである。タールトンと260名の将兵のみが撤退に成功した。 歴史家のローレンス・バビットによれば、モーガンの公式記録にある損害73という数字は大陸軍正規兵のみのものである。生存者の記録からは、死者あるいは傷者の数は128名の名前を挙げることができるという。ノースカロライナ州の記録では68名の大陸軍と80名の民兵の損害となっている。モーガンの届けた損害の数字と戦力兵士の数は実際の半分ということになる。 戦闘後の愛国者兵の証言によれば、タールトンは戦闘に入る前に自隊の兵に捕虜を取るなと命令したという。これは独立戦争中のカロライナにおける残酷な戦闘の中で流布された「偽情報」の可能性がある。タールトンのイギリス騎兵隊は情け容赦もなく負けた敵兵を追跡し、降伏しようとする者も切り捨てたという悪評が高い。その結果、タールトンは愛国者の新聞で「野蛮人のバン」と渾名を付けられた。実際のところ、タールトンはモンクスコーナー、レナヅフェリー、キャムデン、カトーバフォードの戦いで敵を倒した時はいつも、捕虜を取ったことは特記すべきである。タールトンが敵を高い比率で殺したワックスホー・クリーク(別名ビュフォード虐殺)の時でさえも、203名の愛国者に対し降伏を認めた。このことは反証にはならないが、タールトンがなぜ突然、カウペンスの場合に限って捕虜を取らない方針を出したかということに対する説明はこれまで提案されていない。 タールトンが明らかに向こう見ずに命令を発してモーガン隊を追求したために、休息や食料も不十分なまま戦場に到着したことは、タールトンが南部で戦った戦闘がカウペンスの前までは比較的容易に勝利を掴めたという事実で説明付けられる。タールトンはモーガンを追及することに心を奪われており、自隊の兵士が良い状態で戦闘に臨めるようにすることが必要であることを全く忘れていた。 ダニエル・モーガンは、その兵士たちには感情的に「荷馬車の御者」として知られ、傑作といえる戦闘を戦った。彼の戦術立案と個人的な指導力が大半を民兵で構成される軍隊をして力を発揮させ、独立戦争の中でも最大の完勝を勝ち取った。
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