戦闘の要約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:03 UTC 版)
モービル湾の海戦は南北戦争における陸軍の標準からはそれほど流血の多いものでは無かったが、海軍の標準からはそうだった。少なくともニューオーリンズのジャクソン砦およびセントフィリップ砦の戦いや、ハンプトン・ローズの海戦よりは流血の少ないものだった。北軍艦隊は150名が戦死し、170名が負傷した。一方南軍は12名が戦死し、19名が負傷しただけだった。北軍の陸軍は損失が非常に軽かった。モーガン砦包囲戦では1名のみが戦死し、7名が負傷した。南軍の損失は明白になっていないが、僅かに多い程度と考えられている。 モービル市の近くに北軍が居続けることで南軍最後の絶望的な作戦に影響した。モーリーは自軍に対抗する勢力が攻撃には不向きだと理解したが、モービル市を失うことになれば、大衆の士気に大きな打撃となるので、大砲や予備部隊を他の任務支援に送ろうとはしなかった。 このことは、当時アトランタ方面作戦を実行中の北軍ウィリアム・シャーマン少将にとって特に重要だった。モービル市がまだ征服されずに残っているので、ファラガットの勝利の意義は北部の世論にそれほどの影響を与えていなかった。時が過ぎて、その後の北軍による勝利が加わると、戦争は終息に向かっており、この戦闘の意義が大きくなっていった。 アトランタが陥落すると、歴史家ジェイムズ・M・マクファーソンの言葉では、「モービル湾の勝利を思い返し、致命的なワンツー・パンチの最初の打撃として突然新たな重要性を帯びてきた」としている。北部の暗雲が晴れ、戦争継続の住民投票と見なされていたエイブラハム・リンカーン大統領の再選を確かなものにした。 モーガン砦を占領してモービル湾下流に対する作戦は完了した。キャンビーとファラガットは既にドーフィン島に上陸する前に、モービル市を攻撃できる戦力は持っていないと判断していた。さらにテネシーを下流まで持ってくるために苦心したドッグ川砂州があり、ファラガット艦隊が上流に行くことを妨げていた。実際にモービル市が陸海協働攻撃に屈したのは1865年4月のことであり、このときファラガットはヘンリー・K・サッチャー少将と交替していた。モービル市は戦争の最後の日々に陥落した。 南北戦争期の戦闘とその後の経過で多くの難船が湾の中に今でも残っている。例えば、アメリカンダイバー、CSSゲインズ、CSSハンツビル、USSフィリッピ、CSSフェニックス、USSランドルフ、USSテクムセ、CSSタスカルーサである。
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